夢見る者たちの終わらない戦い『ムシウタ』岩井恭平


 それはひどく簡単な、誰もが持っているような願いだった。けれど、どうやら、それすらも、私の手には余るらしい。

 

 

 私は窓の外を行き交っている人混みをぼんやりと眺めていた。彼らはどこを見るでもなく、ただ前を見て、せかせかと足を動かしている。前以外を見ている暇なんてないとでも言うように。

 

 

 テーブルの上に置かれたカップを手に取って、珈琲を口の中に流し込む。珈琲はすっかり冷めていた。私はほんのちょっとだけ、眉をしかめる。

 

 

 私がその喫茶店に入ったのはほんの偶然だった。行きつけというわけでもない。ただ、コーヒーが飲みたい気分になった時に、ちょうどあったから立ち寄っただけだ。

 

 

 それなのに、まさかこんなことになるとは思わなかった。私は内心でため息を吐く。そして、その元凶にちらりと視線を向けた。

 

 

 私の目の前には、背の高いロングコートの女性が座っている。眼鏡をかけた表情は理知的であるけれど、何より変わっているのはその瞳だった。

 

 

 思わず吸い寄せられるような不思議な色の虹彩だった。しかも、どうしてだか、さっきから彼女は私から視線を反らしてくれないのだ。

 

 

 美女に見つめられる、というのは悪い気はしないのだけれど、どこか背筋に寒気が走るような気がした。

 

 

 彼女が知り合いかと言われれば、そういうわけではない。だからこそ、なおさら彼女が私をこんなにも見つめている理由がわからないのだった。

 

 

 そもそも、なぜ同席してきたかもわからない。気がついたら、いつの間にか、座っていたのだ。他に席が空いていなかったのかなと思ったけれど、見渡せば普通に空いている。

 

 

 というより、気がつけば、さっきまで数人はいたはずの客がいなくなっている。それどころか、店員すらも姿を消していた。

 

 

 これはどうも奇妙だと、私は漠然と思った。今、この店の中にいるのは彼女と私だけだった。

 

 

 彼女は美しい女性だったけれど、どこか変わっていた。視線が時折、肉食獣のように鋭くきらめいていて、油断すれば食べられてしまうのではないかと錯覚したほどだった。

 

 

「あの、なにか?」

 

 

 私が恐る恐る聞いてみても、彼女は答えず、妖しく微笑むだけだ。眼鏡の奥の瞳が赤く輝いた気がした。

 

 

 やがて、彼女は口を開いた。その唇から零れ落ちてきたのは、どこか誘うような甘やかな声だった。

 

 

「ねえ、あなたの夢は、なに?」

 

 

夢を守るために

 

 自分のなりたいもの。どうしても欲しいもの。何が何でもやりたいこと。人はそれを『夢』と呼ぶ。

 

 

 夢を持ち、夢に向かって邁進する人たちは、どこか見ていて輝いていて、美しかったりかっこよかったり思える。

 

 

 けれど、一方で、『夢なんて叶わない』として最初から諦めている人もいる。きっと、多くの人はそういった人たちだ。

 

 

 叶えたいと思うけれど、叶わないと思うもの。それこそが夢だ。叶わないと思っているからこそ、それを持ち続けることは難しい。

 

 

 あるいは、実際に叶えなければ意味がないという言葉もある。抱いているだけでは、それこそまさにただの夢でしかないのだと。

 

 

 私が望んだのは、そこまで難しいものじゃなかったはずだ。誰もが持っているような、しかも、大した苦労もなく手に入れているような。

 

 

 人が聞いたら笑うだろう。私だけの、ささやかな夢。だからこそ、今まで誰にも話したことはなかったのだけれど。

 

 

 私は目の前の女性に目を向けた。彼女の声を聞いた瞬間から、どこか頭に霧がかかったように意識が薄らいでいる。

 

 

 彼女の声に誘われて、私は口を開いたけれど、ふと、閉じた。女性が怪訝そうな表情をする。

 

 

 夢は叶えなければならないものなのか。そうじゃないと、意味がないものなのか。

 

 

 いや、そうじゃないだろう。

 

 

 叶えるために努力するのもまた夢であることに違いなく、大切に自分の胸の中で秘めているだけのものであっても、また夢なのだ。

 

 

「私の夢は――」

 

 

 女性の姿が、どこか蝶のように見えたのは、はたしてただの幻だったのだろうか。

 

 

夢のために戦い続ける最高で最悪のボーイ・ミーツ・ガール

 

 すれ違う人々は皆、同じ目をしていた。通りを歩く人々は、それぞれの目的地へと向かって、まっすぐに歩いている。

 

 

 だがそれらにはまったく現実性がなく、まるで大勢の人形たちが歩いているようだった。

 

 

 喫茶店のウィンドウに、作り物のような目をした少女が映っていた。それが今の自分の姿だということもまた、現実とは思えなかった。

 

 

 少女はピタリと足を止めた。なぜ足を止めたのか、自分ではわからない。背中から、声が聞こえた。

 

 

 少女が振り向くと、長身の女性が立っていた。まん丸いサングラスと深紅のロングコートが輝いている。

 

 

 目の前の女性を、少女は知っている。女性が少女を見下ろし、微笑した。赤い革手袋をはめた女性の手が、少女の顎を撫でる。

 

 

 視線を動かすと、異様な姿をした人物が立っていた。大きなゴーグルを被り、漆黒のロングコートを纏った人物だ。その肩に、一匹の蝶が舞い降りる。真っ白な翅をした蝶だ。

 

 

 少女の目に感情の波紋がよぎる。何かが自分の背中を押したのがわかった。詰め寄ろうとした黒コートの足が止まる。

 

 

 サングラスの女性の差し出された指先に、一匹の鮮やかな模様を纏った蝶がとまる。その蝶の姿が変貌していく。美しい翅を見る間に大きくしていった。

 

 

「――ねえ、貴女の夢をきかせて?」

 

 

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