もしも地球が滅ぶなら『終末のフール』伊坂幸太郎


「あと三時間で世界は終わる。さて、君ならどうするだろうか」

 

 

 私の部屋を突然訪ねてきた彼は、感情のこもらない声で淡々とそう言って私がカップに注いで出した珈琲を飲んだ。

 

 

 お、うまいな。感心するようにそう呟いた彼に、私はそうでしょうと胸を張る。コーヒーの淹れ方にはそれなりに自負があった。

 

 

「それで、世界はあと三時間で終わる、でしたっけ」

 

 

「そうだ。ちょうどあの時計の針が重なったくらいだな」

 

 

 彼は講義でもしているかのような淡々とした口調で言う。それは彼のいつも通りだったけれど、口にしている言葉は飛びぬけて奇妙だった。

 

 

 彼は大学時代の恩師だった。不愛想で冷淡な彼の研究室に所属したのは私だけであり、狭い研究室の中で二人して本を読んでいたことを思い出す。

 

 

 彼が子供じみた終末論を言うことなんて天地がひっくり返っても信じられなかった。だから、きっと本当にあと三時間で世界は終わるのだろう。

 

 

 あるいは、天地がひっくり返りそうだから、彼も冗談を言うようになったのだろうか。とはいえ、そのためだけに私の今の住所を突き止めて家にまで来るとは思えない。

 

 

「世界が終わる、なんて今まで何度も聞きましたけどね。でも、世界は終わらなかったじゃあないですか」

 

 

 恐怖の大王なんて舞い降りてこなかったし、マヤ文明の暦に書かれていない時代を、私たちは生きている。大騒ぎしたにもかかわらず、呆気ないほど静かにその日は過ぎていった。

 

 

「その通りだ。だが、昨日が大丈夫だったからといって、今日が大丈夫とは限らない」

 

 

 二回は何も起こらなかった。じゃあ、三回目は。何かが起こる保証はどこにもないけれど、何も起こらない保証はなかった。

 

 

「君、『終末のフール』という作品を読んだことはあるか?」

 

 

「伊坂幸太郎先生の?」

 

 

「そうだ」

 

 

 伊坂幸太郎先生の作品は好きだ。彼の研究室にも何冊か置かれていて、たまにそれを読んでいた。けれど、『終末のフール』を読んだ記憶はない。

 

 

「どんな話なんですか」

 

 

「読んでみるといい、と言いたいところだが、どうする。君なら集中すれば一、二時間程度で読めるだろうが、三時間のうちの、となってくると話は違うからな」

 

 

 私は少し考えてから、口頭でお願いします、と言った。読んでみたいものだけれど、今は会話を楽しもうと思ったからだ。彼は肯いて説明してくれた。

 

 

「『終末のフール』は短編集だな。三年後、地球に小惑星が落ちてくる。つまり、それが世界の終わりだ」

 

 

 その事実が流布し始めた頃はまさしく無法地帯だった。モラルは失われ、法律は効力を持たなくなり、人々は自暴自棄になった。

 

 

 物語はその荒廃した時期を過ぎ、嵐の前の静寂のような平穏を取り戻した頃を舞台にしている。

 

 

 あと三年で何もかもがなくなるとわかっている世界で、彼らは何を思い、どう過ごすのか。そんな物語だ。

 

 

「三年。私たちに残された時間より、ずっと長いですね」

 

 

「そうだな。それだけ作中の研究機関が優秀だということじゃないか」

 

 

 私たちにはたったの三時間しかない。別れた恋人を殴りに行くこともできないし、家を出ていった母に謝ることもできない。

 

 

 残された三時間という短い時間、私ならば、どうするだろうか。彼は考え込む私を、大学の頃の問いの答えを待つ頃と同じように、じっと見つめていた。

 

 

最後の三時間

 

「やっぱり、読ませてください。『終末のフール』」

 

 

 私はふと、思い立ってそう言った。もう三時間、それも少し過ぎてしまったけれど、迷っている暇なんてもうないのだ。

 

 

「それは構わないが、どうしたんだ」

 

 

「だって、伊坂先生の作品、好きなんです。それにせっかく勧められた本を読まないまま終わるのも心残りになりそうで」

 

 

 世界の終わりを描いた作品を読みながら世界の終わりを迎える、というのも、なかなかにオツなのではないかな。

 

 

 それに、残り三時間と改めて言われると、何をするか思い浮かばなかったというのもある。言ってしまえば退屈なのだ。

 

 

 ほら、と彼が黒いカバンから『終末のフール』を取り出して私に渡してくれた。どうも、と受け取ってページを開く。

 

 

「心残り、と言ったが」

 

 

 彼が何気なくといったふうに呟く。

 

 

「中途半端なところで終わりになったら、読まないよりも後悔しそうだよな」

 

 

「そうなったら化けてでも出てきて読みます」

 

 

 その頃には読む本もなくなってるよ。彼のその言葉ははるか遠くに聞こえた。私はもう、物語の世界に旅立っていたからだ。

 

 

 夢を叶えたわけでもないし、愛する人と一緒にいるわけでもないけれど、こんな終わり方もいいんじゃないかと思うのだ。

 

 

終末が近づく時に人は何を思うか

 

 右を見ても左を見ても、雨戸を閉め切っている家が目立った。庭の針葉樹が折れたままになっている家もあれば、二階の窓ガラスが割れている家もある。

 

 

 私たちは押し黙ったまま、しばらく、道を進んだ。通り過ぎる車は一台もなかった。

 

 

 あの頃は、誰も彼もが車に荷物を詰め込んで、逃げ出そうとしていた。どこもかしこもが渋滞で、衝突事故や運転手同士の口論、クラクションの音ばかりだった。

 

 

 小惑星が衝突するのに、どこに逃げようが関係ないはずであるのに、大勢の人間が慌てて、車を走らせた。

 

 

「最近は、ずいぶん落ち着いたものだな」

 

 

 この五年間に起きたパニックは本当にひどかった。恐怖と焦りがないまぜになった人々が、あちらこちらで暴れた。

 

 

 商店やデパートは暴徒に襲われ、当然、警察の手には負えなかった。このままでは小惑星が衝突するよりも前に、この世の中は終わってしまうのではないかと感じるほどの荒れ方だった。

 

 

 それが今年に入り、急に穏やかになり始めた。これは一時的なものだ。間違いない。その時が近づいて来れば、誰もがまた冷静さを失うだろう。

 

 

「あなた、レンタルビデオを観ませんか?」

 

 

 静江が唐突に言い出した。米の入ったビニール袋を持ちながら私は、顔をしかめる。

 

 

「あと三年しかないのに、何が楽しくて、ビデオなんて観なくちゃいけないんだ」

 

 

 娘の康子は国道をゆっくりと、車でやってくるらしい。マンションに到着するのは、午後十時過ぎになるとのことだった。何もせずに待っているのは、正直、落ち着かない。

 

 

「仕方がない、行ってみるか」

 

 

「ええ」

 

 

 静江が嬉しそうな理由が、私にはわからない。

 

 

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