権力は人をおかしくさせる『天使の方舟』望月麻衣


 豪奢に飾られた玉座。それは多くの犠牲の上に立つ、呪われた場所だ。俺は震える身体を抑えつけて、その椅子に、腰かけた。

 

 

 少し前の話をしよう。先代の王が急な病で寝たきりになり、王位を継ぐのは誰か、という話題が国中でささやかれていた。

 

 

 特に、権力欲にまみれた重鎮の貴族たちにとっては今後の自分の立ち位置を左右するために、どんな手段を使っても、という暗い信念が渦巻いていた。

 

 

 次代の王の候補として挙げられたのは、俺と、兄だった。重鎮たちはそれぞれ徒党を組み、自分の擁する王を立てようと悪だくみに明け暮れていた。

 

 

 本来ならば兄が王位を継ぐのが当然の流れであるのだが、兄は側室の子だった。兄の母は元々庶民であったために、正当な王位継承権を持たない、というのが反対派の意見だった。

 

 

 対して、俺の母は正妃で、純粋な王家の血筋を持つ。しかし、兄は目も眩むような美貌を誇る上、できないことはないのではないかと思うほどの秀才だった。

 

 

 兄の才能は幼い頃からすでに頭角を現していて、神童と呼ばれた兄の後をとてとて追いかけていた俺は、それに比べて平凡な、と言われていた。

 

 

 何も思わなかったと言えば嘘になる。曲がりなりにも兄弟だ。兄を疎ましく思った時期も、当然のようにあった。

 

 

 しかし、それ以上に俺は兄が好きだった。兄がいつも俺を気にかけてくれて、かわいがってくれていたからだ。

 

 

「僕は王位なんて柄じゃない。お前がやってくれ」

 

 

「嫌です。兄上の方が優秀ですし、あなたが継ぐのが当然です。まさか、血筋が問題とか言いませんよね?」

 

 

 周りの思惑なんて気にもかけず、肝心の俺と兄は、むしろ王位を嫌っていた。ポーズや冗談ではなく、心からの言葉であったように思う。

 

 

 贔屓目というわけでもなく、俺と兄は仲がよかった。俺は兄のサポートに徹するつもりだったし、兄は兄で、俺を立てようと考えていたらしい。

 

 

 それが突然、変わったのは、ほんの数日前のことだった。

 

 

 あれほどまでに王座を嫌悪していた兄が、『次期国王』となることを宣言したのだ。運命の石が転がり始めていた。

 

 

玉座の頭上に吊るされた剣

 

 玉座に座る俺に、鮮やかなドレスを纏った女性が近寄ってくる。母上だ。母上は、年を経ても衰えぬ美しい笑みを浮かべた。

 

 

「あなたが王になって、私は誇らしいですよ」

 

 

「ありがとうございます」

 

 

 母の言葉に、俺は礼を言った。しかし、次に彼女が続けた言葉に、俺は思わず固まった。

 

 

「ええ、本当に。あの側室の子が王位についたら、どうしようかと」

 

 

 気がつけば、拳を握り締めていた。母を睨みつける険しい瞳を、笑顔の仮面で押さえつける。

 

 

 母は俺を王位につかせることにこだわっていた。彼女はいつも兄を貶め、そして、俺に王になるように言ってきた。

 

 

 『王位を継ぐ』と宣言した翌日、兄は冷たい身体で見つけられた。犯人は屋敷に入り浸っていた庭師だとされていた。

 

 

 しかし、その事件の背後には、母とその賛同者の手があったことは確実だろう。タイミングといい、その後の処理の迅速さといい、不自然なことが多すぎる。

 

 

 自室に戻り、ひとりになると、自然と涙が零れた。閉じた瞼の裏に兄の顔が映る。彼はもう、俺に笑いかけてくれることはない。

 

 

 兄が王位継承の宣言をする前夜のことを思い出す。呼び出されて向かった先で会った兄は、いつもの温和な表情とは違い、緊迫したような表情をしていた。

 

 

「聞いてくれ。俺は明日、王位を継ぐことを宣言する」

 

 

 唐突な兄の言葉に、俺は思わず言葉を失った。今まで王位を嫌っていた兄が、どうして。

 

 

「気がついたんだ。あの玉座はただ重い責任を負うだけじゃない。頭上には細い糸で吊るされた剣がぶら下がっている」

 

 

 そんな椅子に、お前を座らせるわけにはいかない。そう言った兄の横顔は、なにか固い決意を胸に秘めているようだった。

 

 

 その時、兄は何を言っていたのか。俺はとうとうわからず、そして兄は俺に話した通りに宣言をし、そしていなくなった。

 

 

 今になって俺は、兄の言葉の意味を知った。頭上を見上げれば、誰にも見えない、けれどたしかにある、剣の切っ先が見えるのだ。それは、いつ落ちてきてもおかしくない。

 

 

 どうして誰も彼も権力なんて欲しがるのか。権力を手に入れたら幸せになれるのか。

 

 

 兄を失った後の玉座から見下ろして、思う。利権を巡って対立しあう貴族たち。彼らの姿の、なんて馬鹿馬鹿しいのだろう、と。

 

 

穏やかな生活の裏で蠢く陰謀

 

「最長老様、こちらは南国より取り寄せたフルーツで、絶品のマンゴスチンでございます。今、皮を剥いて差し上げますね」

 

 

 九龍の屋敷に住む長老のもとを訪れた世宝の妻、喬は、満面の笑みでそう言って、マンゴスチンの皮を剥き始めた。

 

 

「マンゴスチンか……食すのは久しぶりじゃ」

 

 

 大きなひとり掛けソファーにゆったりと座る最長老は白く長い髭をさすりながら嬉しそうに目を細めた。喬は食べやすくしたマンゴスチンを長老に口に運ぶ。

 

 

 最長老はひと口、二口食べて、もういい、と手をかざした。あとはそなたが食べるといい。そう言われて、喬は残念そうに目を細めた。

 

 

「歳を取るというのは、そう美味いものも多く食べられず、旅行を楽しむ体力もない。本当につまらんものじゃ」

 

 

「でも、楽しみはあるでしょう? 最長老様が楽しみにされていることはなんですの?」

 

 

 そう訊ねた喬に、最長老はにやりと笑った。

 

 

「欧州の地を引く、美しい龍の成長が楽しみでならん。あれほどの人間はなかなか出てこないであろう。どんな大物に育つのか」

 

 

 顔をしわくちゃにして売笑みを浮かべた最長老に、喬は顔色を変えた。動揺し、手が震えていることを気取られぬように口元に笑みを湛えていると、最長老は小さく息を吐いた。

 

 

「喬よ、そなたが息子、成龍を総帥にと考え、儂に取り入ろうとここに足しげく通ってくれていることはわかるが、もう諦めなさい」

 

 

 成龍はその器ではないし、なにより自身も望んでおらん。息子が総帥にならんでも、十分に満たされているはず。つまらぬ野望は捨てるのじゃ。

 

 

 優しくも強い口調でそう言った最長老に、喬はにっこりと笑った。

 

 

「あの子は純粋な黄家の人間ではございません。半分しか黄家の血を継いでおらず、日本人の嫁を迎えたのですよ? そんなあの子を総帥になど、ありえぬことでしょう」

 

 

 笑みを浮かべたまま、鋭い眼光を見せた喬に、最長老は笑った。

 

 

「そなたは若いのに固執した考えを持つ。これからは柔軟な思考も必要となるだろうに」

 

 

「最長老様、もうそのお話はやめにしましょう」

 

 

 喬は笑みを湛えながらゆっくりと最長老の前まで歩み寄り、首に手を回した。

 

 

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