社会の欺瞞や偽善に立ち向かう『ライ麦畑でつかまえて』J.D.サリンジャー


「あなた、世の中の全部が気に入らないんだわ」

 

 

 文字で描かれた十歳の少女の言葉が、読んでいる私の胸を突き刺した。ような気がした。私はその少女の、利発そうな瞳を、茫然と見つめる。

 

 

 その言葉はホールデンに向けられたものだけれど、私は、それを言った彼女の視線が私の方を向いているように感じた。

 

 

 そうか、だから私は、こんなにも生きるのが苦しいのか。不思議とその言葉は、私の心に沁み込んでくるようだった。

 

 

 『ライ麦畑でつかまえて』。J.D.サリンジャー先生の作品。やたらと世間で話題を呼んだ問題作だと言われている。

 

 

 不良のホールデンは成績不良が原因で退学になってしまう。ルームメイトと喧嘩して予定より早めに学校を出た彼は、気分を良くしようと、ガールフレンドと会ったりホテルで女性と踊ったりする。

 

 

 しかし、彼の気分は晴れることもなく、一度、母や父に見つからないように家に帰ることにした。

 

 

 その台詞は、ホールデンの妹のフィービーが言った言葉だ。退学になった兄の心を見透かすように、彼女は言うのだ。

 

 

 『ライ麦畑でつかまえて』は、今でも危険な本として忌避されている。紛れもなく名作であるのに。私は理解できなかった。

 

 

 いわく、社会に適合していくことを拒否し、反抗していく不良少年の姿は、若者に危険な思想を抱かせる、だとか。

 

 

 あるいは、過度な暴力表現や、過激な表現があるから、だとか。そんなことが理由として挙げられている。

 

 

 けれど、私は首を傾げざるを得なかった。過激な描写だとは感じなかったのだ。もっと露骨な描写をされている作品は、いくつもある。

 

 

 それなのに、危険な本として避けられているところが、むしろホールデンの嫌う「社会の欺瞞」を象徴しているように思えてならなかった。

 

 

 不良として見做され、社会に適応できずに孤独を深めていくホールデン。けれど、彼はとても純粋な少年だ。

 

 

「広いライ麦畑でね、子どもたちが遊んでいる。大人は僕だけなんだ。僕は崖の端にいて、子どもが落ちそうになったらその子どもをつかまえる。僕がなりたいのは、そういったものしかないんだよ」

 

 

 彼は子どもを本当に宝物のように愛している。もちろん、妹のフィービーのことも。ホールデンにとって、インチキばかりしている大人は、子どもの対極だ。

 

 

「大人になれ、ホールデン」

 

 

 作中で、彼は幾度となく、そんな言葉を投げかけられる。その度にからかいの言葉でふざけている彼を見ると、私はどうしようもなく切なくなってしまう。

 

 

 ホールデンにとって大人になることは、欺瞞や偽善に満ちたこの社会を認めて、インチキできるようになれと言われていることと同じことなのだ。

 

 

 ふざけて、逆らい、殴られて、それでもふざけ続ける彼のその姿は、無理やり引きずり込もうとする社会に必死で抵抗しているように見えて、私は哀しくなった。

 

 

 大人は汚い。さも偉そうな顔をして、平気で嘘を吐いている。私だって、彼らが大嫌いだった。

 

 

 けれど、いつしか私は諦めたのだ。ホールデンのように抵抗することもなく、私は汚い大人のひとりになった。

 

 

 願わくば、私はずっと、ライ麦畑で遊びまわっている子どものままでいたかった。無知で、自分の欲望に忠実な、ただの子どもに。

 

 

 私がどうしようもなく切ないのは、私自身がもう、ホールデンのいるライ麦畑に足を踏み入れる資格を失ってしまったからかもしれない。

 

 

ライ麦畑のキャッチャー

 

 もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、僕がどこで生まれたかとか、そういったくだんないことから聞きたがるかもしれないけどさ、実を言うと僕は、そんなことはしゃべりたくないんだな。

 

 

 どこから話を始めたらいいか――僕がペンシー高校をやめた日のことから話すことにしよう。

 

 

 サクソン・ホールとフットボールの試合をやった土曜日のことだ。サクソン・ホールとの対抗試合はね、ペンシーじゃ、重大事件ということになってんだな。

 

 

 僕が競技場へ下りていかなかったわけはだな、歴史の先生のスペンサーさんに、僕、お別れを言いに行く途中だったんだ。

 

 

 僕は退学になったんだよ。四課目おっことしちゃって、しかも勉強する気がない、とかなんとか言いやがんだな。

 

 

 ペンシーじゃよく生徒のとこをおっぽり出すんだよ。とてもいい学校ってことになってんでね、ペンシーは。本当なんだ。

 

 

 僕は寒い中で、下の試合を見てたんだ。といっても、たいして身を入れて見てたんじゃない。

 

 

 どうしてそんなとこにぐずぐずしてたかというと、実は、その、別れの気分といったようなものを味わいたかったからなんだ。

 

 

 僕は競技場に背を向けて、その丘の反対側を、スペンサー先生の家の方へ向かって駆け下りたんだ。スペンサー先生は学校の構内に住んでなかったんだよ。アンソニー・ウェイン街に住んでたんだ。

 

 

 いやあ、スペンサー先生の家に着くが早いか、いきなり僕はベルを鳴らしたね。本当に体が凍っちまってたんだから。

 

 

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