貧乏侍に取り憑くのは、貧乏神、疫病神、そして死神『憑神』浅田次郎


 貧乏になるのも嫌じゃ、病気にかかるも嫌じゃ、死するのはもっと嫌じゃ、ましてや、その三つが立て続けに起こったならば。

 

 

「お前様、あの土手下にある古ぼけた祠を知ってるかい?」

 

 

「いんや、知らぬ。何ぞや霊験あらたかだったりするのかい」

 

 

「その真逆でさあ」

 

 

 かの土手下にある祠を、「三巡稲荷」と申しまする。「三囲」じゃあねえぜ、「三巡」よ。

 

 

 「三囲稲荷」は立身出世なんでもござれ、てえなもんだが、「三巡稲荷」には、間違っても拝んじゃあいけねえ。ましてや、手を叩いてよろしくなぞと言った日にゃあ。

 

 

「どうなるんで?」

 

 

 こんな男を知ってやす。彼の名は別所彦四郎。それはそれは真面目で勤勉、武力学力に優れたひとかどの男にて、武士道にも誠実な、今時珍しい侍でござんした。

 

 

 しかし、世は幕末。そんな真面目な武士何ぞ、時代遅れもいいところ。疎まれた彦四郎は嫁ぎ先を追い出され、貧乏侍も一文無しよ。

 

 

 そんな奴ならお地蔵様にすら祈っちまいそうなもんさ、土手下で偶然その祠を見つけた彦四郎は、ほら、祈っちまった。

 

 

 「三巡稲荷」の「三巡」ってえ、なんだかわかるかい? こいつぁ、三度の神様が訪れるってことでさあ。

 

 

 人の世に銭はつきもの。そいつを奪うのは貧乏神よ。まずは身ぐるみ剥がされ一文無しさ。

 

 

 次に疫病神。貧乏に苦しんだ後は床に臥せって病に唸るって寸法よ。この時点でも常人には耐えられねえなあ。

 

 

 だが、最後のはとびっきり、逃れようなんてできやしねえさ。そうなっちまったら、俺ぁ……ああ、怖くて言えねえなあ。

 

 

 とはいえ、この神様たちはどうにもやたら人間味溢れるみたいでさあ、頼むことこそ聞かずとも、相手は神様、祈りくらいは聞き入れてくれるんじゃあねえか?

 

 

 その後、彦四郎はどうなっちまったか、だって? そいつぁお前様、言わずもがなってやつだろうよ。

 

 

 馬鹿がつくほど真面目な男よ。武士の世の中が終わろうって時に、ひたすらに武士道を重んじる奴が馬鹿と言わずになんという。

 

 

 でもよう、今の日本にはむしろ、そういった馬鹿こそが必要なのかもしれねえなあ。「武士道」ってのはもう、どこにもなくなっちまった。

 

 

 とまあ、つまりはそういうことだから、間違っても「三巡稲荷」には拝むんじゃねえぞ。わかったな?

 

 

 ……あんた、何顔を青くしてんだ。なんだ、俺の蕎麦が不味かったってか。え、違う。じゃあ、どうしたってんだい。

 

 

 おや、あそこにいますは、なんて羽振りの良さそうな商人だ。お前様の知り合いかい。

 

 

 え、ああ、なるほど。ったく、冗談だろ。店じまいだ、ほら、帰った帰った。俺あ蕎麦を作り続けて長いがね、魑魅の類いに喰わせる蕎麦は打てねえのさ。

 

 

 おお、てえこたあ、あいつを見るのもこれが最後かもしれねえな。くわばらくわばら、南無阿弥陀仏……。

 

 

真面目な武士の身に降りかかる災い

 

 後世にいわゆる幕末と呼ばれることになる、模糊たる時代の物語である。別所彦四郎が余りの蒸し暑さに辟易して蚊帳を這い出たのは、宵っぱりの御徒町屋敷もしんと静まり返った夜更けであった。

 

 

 彦四郎は三尺帯を巻いて刀を差し、羽織を着て離れ家を出た。俺は何ひとつ悪いことなどしていない、と彦四郎は夜道をそぞろ歩みながら考えた。

 

 

 武芸には怠りなかった。学問もさることながら、道場の免許皆伝まで授かったのだから、婿入り先に不自由はなかった。婿養子に納まったのは、小十人組組頭の井上軍兵衛が家である。

 

 

 ところが男子を授かった途端、祖父母と小姑の、あからさまな婿いびりが始まった。

 

 

 そうこうするうちに、事件が起こった。配下のつまらぬ口争いが発端となり、離縁させられ、家を追い出されたのだ。

 

 

 蕎麦をたぐりながら、彦四郎は夜店の親爺に毒づいた。親爺が両掛け天秤の屋台を高橋の袂に出したのは、彦四郎がまだ手習いに通っていた時分である。

 

 

「彦さん。にっちもさっちもいかねえてえんなら、旨え話を聞かそうか」

 

 

 ここだけの話だがね、出世祈願には何たってお稲荷さんの霊験があらたかなんだそうで。

 

 

「何でも川路左衛門尉様は、向島土手下の三囲稲荷に願をかけて、めでたく出役出世をお果たしになったそうだ。どうでえ、彦さん。ものはためしにお願いしてみねえかい」

 

 

「まことか」

 

 

「そんなら、物はためしで」

 

 

 ほんの一瞬、真顔で見つめ合ったあと、二人は咳いて笑った。勘定のやりとりの気まずさは、うまい冗談で立ち消えとなった。

 

 

 さすがに大名屋敷の侍たちも引けどきである。帰る道すがら、追い越してゆく見知った顔に挨拶をされても、にわかに誰とわからぬくらいであった。

 

 

 帰りかけたとたん、不覚にも夜露を含んだ土手に足を滑らせて転げ落ちた。いやというほど打ち付けた尻を撫でていると、土手下の暗がりに妙なものを見つけた。

 

 

 ほんの一抱えばかりの、破れ傾いた祠である。にじり寄って、彦四郎はぎょっとした。小さな祠には蒲鉾板のような札がかかっており、そこにありありと、「三巡稲荷」の文字が読み取れた。

 

 

「もしや、みめぐり、でござるかの。向島の三囲様とは字が違うようじゃが、御分社なら大助かりでござる。ではでは、なにとぞよろしう」

 

 

 お道化て手を合わせた途端、時ならぬ鐘がゴオンと鳴った。

 

 

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