白うさぎが走っているのを見かけた。そのうさぎはチョッキを着ていて、時計を見ながら急いでいるようだ。私はそれを見て、いつもの夢だと感じた。
私がその夢を見るようになったのは、まだ幼い頃のことだった。小さな私は母に抱かれて、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を読み聞かせられたのだ。
母の言うことには、話を聞いていくにつれて、私の目には涙が浮かび、とうとう泣き出してしまったのだそうだ。
それ以来、私は嫌なことがあった日、こうして『不思議の国のアリス』の夢を見る。
それも、自分がアリスになっている夢だ。夢の中の私は小さな女の子で、青いエプロンドレスを着ていて、頭に黒いリボンをつけている。いつものことだ。
私がどうしてこれほど『不思議の国のアリス』に囚われているのか。そんなの、理由ははっきりするほどわかっている。
幼い頃、母から読み聞かされたその物語に私が感じたのは、漠然とした恐怖だった。当時の私にとって、その絵本は怖くて仕方がなかったのだ。
何が怖かったのかといわれれば、今でもよくわからない。姿を消すチェシャ猫かもしれないし、奇妙なお茶会なのかもしれないし、首を切りたがる女王かもしれない。
けれど、その頃の私はたしかに、地に足をつけていないような、自分がとても不安定な場所に立っているかのような、そんな言いようの知れない不安定さを感じたのだ。
物語のそこら中に、紅茶を満たすように溢れている狂気。それは何年も経った今でもあの物語に感じる。
それでいて、大人になった今では、その狂気がこの社会を行き来している人間の根底に存在しているものなのだということを知ってしまっていた。
不条理。理不尽。ナンセンス。まともなように見せている世界の皮を剥がしてみれば、その下にあるのは何もかもめちゃくちゃな混沌とした世界だ。
これは夢だと確信しながらも、私は本を放り出して、駆けていく白うさぎを追いかける。その先に待ち受けるものを知りながらも、私の身体は止まらない。
私はアリスなのだ。アリスは走る白うさぎを見たら、追いかけなければならない。それが物語の始まりだったから。
ルイス・キャロルはきっと、現実世界の裏側にたしかに存在している「不思議の国」を見てしまったのかもしれない。
それは誰もが存在を知りながらも、誰も見ようとしない世界。目を反らして、まるでそこには何もないかのように過ごしている、裏側。
暗闇へと通じるうさぎ穴は、自分の心。深く、深く、どこまでも深いその穴に落ちてしまえば、その世界を垣間見てしまうことになる。
白うさぎは「忙しい、忙しい」と呟きながら、大慌てでうさぎ穴に落っこちた。
近づいたらもう、逃げられない。そのことがわかっていながらも、私はうさぎ穴を覗き込まずにはいられない。
底が見えないほど深いその穴の縁に手をかけて覗き込んだ時、縁の土がぼこっと抉れて、私はうさぎ穴に真っ逆さまに落っこちた。
ルイス・キャロルはいったい何を思って、この物語を作ったのだろう。聞けば、溺愛していた親戚の女の子に聞かせてあげた即興の物語らしい。
けれど、そこには、子どもに聞かせる以上の何かが込められているように思えてならない。
狂っていて、不条理で、ナンセンスで、理不尽で、非現実的で、何かを意味していながら、何も意味していない、不思議で、奇妙な、物語。
ああ、そしてまた、私はいつものようにうさぎ穴に落ちる。怖くてたまらないあの世界に。できれば多くの大人のように目を背けたまま、気づかずに痛かったあの世界に。
けれど、きっと心のどこかで、私は恐怖を超えて不思議の国に惹かれているのだろう。だって、穴に落ちる私の口元は、いつだって弧を描いてチェシャ猫のように笑っているのだから。
うさぎ穴に落っこちて
昔、アリスという名前の女の子がいて、とてもへんてこりんな夢を見たんだって。どんな夢を見たか、知りたい?
はじめに夢に出てきたのは、うさぎ。白うさぎが大急ぎで向こうから走ってきて、アリスのそばを通り抜けたかと思うと立ち止まり、ポケットから時計を取り出したんだよ。
白うさぎの目はピンク色。耳もピンク色だし、上着は素敵な茶色。上着のポケットからは赤いハンカチが覗いていて、青いネクタイを締め、黄色のチョッキを着ている。
「おやまあ、大変! 遅れちまう!」
白うさぎが走っていくと、アリスはうさぎがどうなるのか知りたくなって、後を追いかけてどこまでも走っていき、とうとううさぎ穴にころげ落ちてしまったの。
すると、今度はどんどんどんどん、どこまでも落ちていくので、終いには地球を突き抜けて反対側に出てしまうんじゃないかしらと怖くなった。
うさぎ穴は、それこそ深い深い井戸みたい。もしも夢じゃなくて本当にこんな落ち方をしたら、きっと死んでしまうよ。
でも、どんどん落ちていった挙句、とうとう、アリスは芝と枯草の山にぶつかったの。でも、かすり傷ひとつせず、飛び起きるとすぐ、またうさぎの後を追いかけていった。
アリスの見た不思議な夢の始まり始まり。今度白うさぎに会ったら、そっと思ってごらん。私もかわいいアリスみたいに不思議な夢を見ようとしているところだって。
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