天にそびえる天守閣。かつて、その場所には天下人がいたという。その威容は、今もまだ、大阪の街を睥睨している。
大阪という都市には、ずっと憧れを抱いてきた。そのきっかけは、万城目学先生の『プリンセス・トヨトミ』を読んだことだった。
作中で圧倒的な存在感を示している、「大阪国」という謎めいた組織。会計検査院の三人が立ち向かうのは、大阪という都市そのものだ。
もちろん、現実には存在しない、その物語がフィクションであることは理解していた。「大阪国」なんて存在しないのだと。しかし、それでも圧倒された。
真っ赤に染まる大阪城。街道を埋め尽くす大勢の男たち。その光景は、あまりにも実感のある衝撃として私の頭に刻み込まれた。
テレビで見るような、お笑い芸人や、おいしい料理、関西弁といったいわゆる「大阪」らしさとはまた違う、大阪の姿。
豊臣秀吉の末裔という鍵を以て綴られるのは、父と子の絆が脈々と繋いできた伝統と、大阪の女たちの深い度量である。
壮大なスケールの物語の中には、たしかに人情に溢れる現実的な「大阪」の姿があった。僕はそれに魅了されたのである。
いつか、ひとり旅をして、大阪に行く。それは僕の悲願とも言えた。そして、その夢をとうとう叶えることができたのだ。
物語で読んだ大阪城が、今まさに目の前にそびえ立っている。ずっと憧れていた存在に、僕は声を出すこともできず、ただ茫然と突っ立って眺めていた。
意外なことに、喜びはなかった。胸に去来するのは、ただただ、深い感動である。それは布に水が染み入るように、僕の心を飲みこんでいった。
作中では、豊臣秀吉の末裔が、この大阪のどこかに今も生きているのだという。
それが物語の中だということが、なぜだか無性に哀しくて仕方がなかった。かつて日本の頂点に君臨した男の血を引く者は、すでにない。それが現実。
今目の前にある大阪城は、所詮は偽りに過ぎない。天下を手に入れた徳川が建てた紛い物の城だ。
本当の城は、すでに残されていない。その姿を見ることは、もう誰にもできなくなってしまった。
見てみたかったなあ、本物の、大阪城を。信長に仕え、低い身分から天下人にまでなった豊臣秀吉。
晩年は気難しい性格になっていったものの、人柄は陽気で、人たらしの気性があったとされている。
大阪城はまさに、彼のそんな人柄を表したものであったのだろう。
天下人としての威容を示しつつも、その天守閣は、商魂溢れ、人情を愛する大阪の人たちに寄り添い、ずっと見守ってきたのだ。
僕がずっと大阪に焦がれている理由。それは、僕自身が大阪国の一員に、憧れたからかもしれない。
街道を埋め尽くす人々の群れの中に、僕は混ざっていたかったのだ。伝統を引き継いできた彼らのようになりたかったのだ。
意味は知らずとも、ただ家族の愛だけが、その不可解な行動に意味を持たせる。そこには、「家族」というものの本質があるような気がした。
僕は家族のことが好きだ。今まで育ててくれたことは感謝してもしきれないくらいだし、父親も母親もひとりの人間として尊敬している。
けれど、好きであっても、尊敬していても、わかりあえないこともある。喧嘩だってするし、うっとおしい時だってある。
人間同士がわかり合うのは、とても難しい。たとえ親子であっても。そのことが、互いの間に壁として立ちはだかる時が、必ずある。
けれど、きっとその根底にある、家族愛だけは変わらないはずだ。たとえ、どんな状況にあったとしても。
親から子へ、引き継いでいく。それを繰り返してきたからこそ、今がある。大阪国が本当に守ってきたものは、きっとそういうものなのだろう。
大阪が全停止するまで
このことは誰も知らない。五月末日の木曜日、午後四時のことである。大阪が全停止した。
通常の街としての営業活動、商業活動は停止。地下鉄、バスなどの公共機関も運転をやめた。種々の非合法活動すら、その瞬間、この世から存在を消した。
長く閉ざされた扉を開ける重要な”鍵”となったのは、東からやってきた三人の調査官と、生まれた時から西にいた二人の少年少女である。いや、二人の少女というべきか。
大阪が完全に停止した日より、遡ること十日。月曜日の朝に、物語は始動する。片や、東海道新幹線東京駅から。片や、大阪の”坂道を抱いた”商店街の一角から。
忙しない朝の東京駅を、キャリーバッグを引いて進む三人の姿がある。
先頭を歩く男は、アイスクリームを食べている。真ん中の男は、やけに慌ただしく歩いている。最後尾の女は、すれ違う男たちを片っ端から振り返らせている。
お待たせいたしました、という駅員の車内清掃終了のアナウンスとともに、新幹線のドアが一斉に開いた。乗客の列に混じり、三人も七号車に乗り込む。
東海道新幹線東京駅、午前九時。会計検査院第六局に所属する三人を乗せたのぞみ113号が、大阪に向け出発した。
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