過去に一度だけ、スキー場に行ったことがある。一面の銀世界。雪の降らない地域で生まれ育った私は、その時初めて視界いっぱいの雪を見たのだ。
その瞬間の私の心情は、何も感じなかった。きれいだ、とも思わなかったし、初めてのスキーを前にわくわくしていたわけでもなかった。
ただただ、圧倒された。私の思考はその時、視界に広がる雪のように真っ白だった。何も考えることができなくなるほど、その光景は私の心を奪ったのだ。
運動神経の悪い私は、とうとう、スキーで満足に滑ることはできなかった。ずっとこけてばかりで、ほんの数メートル進むだけ。歩いたほうが早かったかもしれない。
だが、それ以上に、こけた時の雪の中に沈み込む感覚に、あるいは、身を投げ出した時に柔らかく受け止めてくれる羽毛のような柔らかさに、私は夢中になった。
以来、私はスキーに再び行くことは、叶っていない。そして、いよいよその野望は難しくなってしまった。
感染症が猛威を振るうこの時期に、アウトドアのレジャーに行くというのはなかなかに難しい。というより、開いているかどうかすらわからなかった。
そのうえ、今年の冬は記録的な寒波で騒がれていた。私が住んでいたところは雪が積もることこそないが、ちらちらと雪がちらつく程度には降っていた。
しかし、テレビの中で見る豪雪地帯はすさまじいもので、外出も満足にできず、必死に雪かきをしている場面が何度も映し出されていた。
私は子どもの頃から雪が大好きだった。たまに降れば、庭に出て走り回っていた。しかし、きっと彼らにとって、雪ほど恐ろしいものはないのだろう。
雪は時として、人間に対して圧倒的な自然の牙をむく。かつて、あまりにも多くの人々が雪によって命を奪われてきた。雪の美しさは、恐ろしさと表裏一体だ。
『白銀ジャック』という作品を思い出す。東野圭吾先生の著作だ。スキー場を舞台としたミステリである。
スキー場に爆弾を仕掛けた。爆発させられたくなければ、三百万を支払え。ある時、スキー場にそんなメールが届く。
当初は、誰もがイタズラだと思っていた。しかし、犯人の言葉通りのものが見つかり、次第に本当なのではないかという疑念が生まれ始める。
スキー場では、何も知らない客達が無邪気にスキーを楽しんでいた。爆弾が爆発すれば、彼らの命も危うくなる。
苦渋の末に、スキー場を運営する上層部は、犯人の指示に従うことにした。しかし、事態は思わぬ方向にころがり始める。
彼らの命はどうなるのか。スキー場の命運は。要求を繰り返す犯人の目的は何か。スピード感あふれるハイテンポなサスペンスだ。
圧倒されるのは、臨場感に満ちたスキーの描写である。文字から伝わってくるスピード感は、まるで私自身がスキー板を駆けて斜面を駆け下りているかのような錯覚すら起こさせる。
そして同時に、雪の恐ろしさも垣間見えるのだ。身に迫りくる雪の波。美しい自然の獣の前に、人間がいかに小さな存在なのかということを実感する。
人間の心も、あの雪のように白く、雄大であればいいのに。近頃のニュースや『白銀ジャック』を読んでいると、そんなことを強く感じてしまう。
金か、それとも復讐か
目覚まし時計代わりにセットした携帯電話のアラームで、倉田玲司は眠りから覚めた。窓に近づき、カーテンを開ける。
彼の部屋からはホテルの駐車場が見える。停められた車の屋根に積もった雪の厚みは、優に五十センチ以上はありそうだ。
倉田は思わず拳を固めていた。これでおそらく積雪は二メートル近くになったはずだ。これならば年末年始に訪れる来場者を失望させることはない。
倉田が部下に指示を出すと、中央クワッドリフトを皮切りに、新月高原スキー場のリフトが次々と動き始めた。
索道事業本部長の部屋は、管理事務所のすぐ隣にある。倉田がノックをすると、「どうぞ」と低い声が返ってきた。松宮忠明は、書類のようなものに目を落としていた。
「リフトの状況はどうだ? 今日から、すべて動かしているはずだが」
「問題ありません。安全に運航しています」
「そうじゃなくて、客の利用状況を訊いているんだ」
運営についていくつか語った後、「とにかく現状のゲレンデを安全に運営してくれればいい」と言われ、「わかりました」と倉田は頭を下げ、部屋を出ていこうとした。
すると、慌ただしくノックをする音が聞こえた。どうぞ、と松宮が言った。ドアを開けて入ってきたのは辰巳だった。手に一枚の紙を持っている。
「ホームページを更新していたら、こんなメールが届いたんです」
そういって持っていた紙を松宮の方に差し出した。松宮は、眉間にしわを寄せ、そこに書いてある文字に目を通した。その顔がみるみるうちに強張っていった。
『諸君たちを有頂天にさせている積雪量たっぷりのゲレンデだが、その下にはタイマー付きのの爆発物が仕掛けられている』
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