最期の時を前にして、私は思索に耽っていた。幸福とは、何か。果たして、私が今まで過ごしてきた人生は、幸福であったのだろうか。それとも、不幸であったのか。
気になった私は、書斎で埃をかぶっていたヘッセの『幸福論』を開いてみることにする。どうせ、もはや私の人生に先はない。先がないからこそ、時間は溢れている。
ヘルマン・ヘッセはドイツの詩人であり、作家である。国語の教科書に載っていた『少年の日の思い出』が、代表作として浮かぶ。
どうやら、ヘッセは素行の良い真面目な少年、ではなかったらしい。むしろ真逆で、入学させられた神学校や仕事から何度も逃げ出している。
社会に対する疑問を綴った作品を多く手がけている源泉は、その過去の経験にあるのかもしれない。そんな人物にとっての「幸福」とは、いったい何なのか。
まず真っ先に、「幸福」という言葉そのものに目を向けるその視点は実に詩人らしいように思える。だが、なるほど、たしかに言われてみれば、我々の知る「幸福」は人によって変わり、具体的な姿は誰も持っていない。
ヘッセの示す「幸福」は何だか美辞麗句がつらつらと並んでいるが、つまりは「とても美しく、世界が輝いて見えるもの」とも言えるだろう。
だが、ヘッセが言うには、「幸福を体験するためには、時間に支配されず、恐怖や希望に支配されないことが必要」なのだという。
人間は育っていくに従って世間からの支配から逃れられなくなる。だからこそ、「幸福」を思い返す者は幼年時代に思いを馳せる。多くの人たちが、その時代に「幸福」を見出す。
子どもの頃は、たしかに「幸福」だった。家にお金がなくとも、父と母と穏やかに過ごしているだけでも楽しかったものだ。何か特別なことがあったわけじゃない、過ごしている毎日が光り輝いていたのだ。
大人になっていくにしたがって、私はその頃の光り輝いていた思い出を失った。「幸福」を感じ取れなくなり、「幸福」を求めるからこそ、一層「幸福」から遠ざかっていった。
背中に羽を持ち、自分が空を飛ぶことができると本気で信じていたあの頃と違って、今の私は、自分の背に翼などないことを知っている。地につながった足枷に縛られた囚人であることを知っている。
時間と、責任と、知恵と、社会と、現実に、私たちは閉じ込められてしまったのだ。知ってしまったからこそ、「幸福」を失った。だが、知らなければ、ずっと子どもであれば、我々は幸せだったのだろうか。
現代を生きる子どもは、昔よりも遥かに「いい子」になった。親に逆らわず、先生の言うことにも唯々諾々と従う。賢い子どもばかりだ。間違ってもヘッセのように、学校から脱走するような子はなかなかいない。
だが、それは、本当に良いことなのだろうか。子どもの頃から縛られていることを知ってしまった子どもは、いつ、「幸福」を知ることができるのか。
ヘッセの『幸福論』に載せられている短編『小がらす』を見よ。カラスの群れから外れ、人間たちを嘲笑いながら生きる逞しい一羽のカラスの姿を。社会から外れた者の美しさを。
「幸福」とは何か。アルバムの中にしかないものなのだろうか。私たち自身の「幸福」は、変化のない、安定した社会生活の中にあるのか。私たち大人は、子どもたちに「幸福」を教えてあげられているのだろうか。今一度、そのことを考えなければいけないのかもしれない。
「幸福」ということば
神が考えたような人間、諸国民の文学や知恵が幾千年にわたって理解してきたような人間は、事物が役に立たない場合でも、美を解する器官をもってそれを楽しむ能力を付与されて作られている。
それができるかぎり、人間は、自分というものにまつわる疑問を繰り返し処理して、自分の存在に繰り返し意味を認めることができるだろう。「意味」こそ、多様なものの統一であるから。
ふたたびことばのなくなった現実に生きているのでないかぎり、ことばは人格的な財産である。健全な人間にとっては、例外なく、語やつづり、字母や形、文章構成の可能性などは、特殊なその人固有な価値と意味を持っている。
ことばは無数にある。そして絶えず新しいことばが発生する。しかし、良いほんとのことばはそれほど多くはない。語の中には、慎重に大切にして、荘重な語もある。私にとっては幸福ということばは、そういうもののひとつである。
それは、私がいつも愛してきた、好んで聞いてきたことばのひとつである。この語は、短いにもかかわらず、驚くほど重い充実したもの、黄金を思わせるようなものを持っている、と私は思った。
自然の感覚的な面に向かっては、幸福という語に対する私の関係は少しも発展したり変化したりしなかった。この語はいつもと変わらず今日でも短く重く、黄金色に輝いている。
この不思議な象徴は何を意味しているか、この短い重いことばは何を言っているか、それについて私の意見や考えは、さまざまの発展を体験し、ずっと後になって初めて明白な一定の結論に達した。
幸福のもとに、私は今日、全体そのもの、没時間的な存在、世界の永遠の音楽、他の人々が天球の調和あるいは神の微笑と呼んだところのものを理解する。
黄金色に輝く永遠は、純粋な完全な現在であって、世界の顔は永遠に輝き笑う。私たちにもなお与えられるかもしれない喜びや慰めや笑いは、そこからの輝きであり、光に満ちた目であり、音楽に満ちた耳である。
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