この広い日本で、居場所をなくした人は何人いるのだろう。無数の人が互いの顔も見ないまま、ただの風景として通り過ぎていく雑踏の中で、僕はぼんやりと佇んでいた。
柳美里先生の『JR上野駅公園口』は、ホームレスに焦点を当てた作品だ。息子が若くして謎の死を遂げ、妻も失くした男は、娘の家族に置手紙を残して自ら孤独へと足を踏み入れた。この作品は、私の心に眠る思い出をふっと掬い上げた。
昔、何もかもが嫌になって、仕事を放り出して逃げ出したことがある。いっそ終わりにしようとするも、怖くて実行できずに、とにかく遠くまで行こうと思ってバスを乗り継ぎ、知らない場所に行った。
一週間。私はマンガ喫茶に寝泊まりしていたことがある。夏場だというのにクーラーの効き過ぎた部屋は寒すぎて、ちっとも眠ることができなかった。
朝は、食べ放題のパンとポテト、コーンスープ、飲み物はドリンクバーのメロンソーダ、デザートにアイスクリーム。
本屋や図書館で顔を突っ伏して眠り、昼はマクドナルドで安いハンバーガーを買って食べていた。そしてまた、夜にはマンガ喫茶で部屋を取り、浅い眠りにつく。
髭は伸び放題で剃ることもできず、洗濯も入浴もできない。雨に降られてびしょ濡れになった靴は、ずっと不快な水音を立てていた。
身体の節々は常にどこかしら痛みを吐き出していて、ずっと霧がかかったかのように頭がぼんやりしていた。たかが一週間、と思うかもしれないけれど、私はこの時間を忘れることはないだろう。
飽食が過ぎる現代社会で飢えることはほとんどない。お金がなくとも、選り好みさえしなければ食べ物なんてそこら中で手に入る。
屋根がある場所も無料で使える場所は多い。クーラーも効いている。無料のウォーターサーバーが設置されているところもある。試食を置いている店もある。
生きることはできるのなら、身体の本能は自ずと生きようとする。いっそ終わりにしたくても、それは生きるよりも勇気がいる。死にたくても、生かされる。それはむしろ、残酷なようにも思える。
身体は生きていても、心は死んでいる。孤独。この広い世界で、誰ともつながりがなく、自分ひとりだけがいる。周りの人間は全て風景と同化していて、表情のひとつもわからなくなる。
当時、マンガ喫茶で寝泊まりしていた間、毎日のようにスマホには親からの着信履歴があった。ありとあらゆる手段で「帰ってこい」という言葉が刻まれていた。
その頃の私は帰らない決意をしていたが、結局、帰ることになった。親から叱られ、職場にも謝罪し、けれど久々に温かい食事を食べた。
もしも、あの時。親とのつながりを私が完全に絶ってしまっていたら、この世界に孤独でいることを選んでいたなら、どうなっていただろう。
当時の私は野垂れ死にすら覚悟していた。そして、あのままでは事実、遠からぬ未来、そうなっていたかもしれない。
人は誰しもつながりを持っている。けれど、そのつながりを失い、自分の居場所をなくしてしまったと気付いた時、自分があまりにも儚い生き物だということに気付かされるだろう。
現代は、どこもかしこも人の息が届いている。荒れ果てた山ですら誰かの所有地だ。人間の息吹から離れたところに行くことは難しい。国民はひとり残らず戸籍に名が載っていて、衛星写真は常に頭上から自分たちを覗いている。
どこもかしこも視線がある。この社会からは逃げられない。それなのに、行き交う人たちはみな、僕を一瞥すらせずに、ただの置物のように通り過ぎていくのだ。
この社会において、居場所を失うということがどういうことか。そしてそれは、今、僕を嘲笑っている君の、未来の姿かもしれないのだよ。
家を失った人々
また、あの音が聞こえる。あの音――。聞いている。でも、感じているのか、思っているのか、わからない。内側にいるのか、外側にいるのかも、わからない。
いつ、いつか、だれ、誰だったのかも、わからない。それは肝心なこと? 肝心だったこと? 誰、なのか――?
人生は、最初のページをめくったら、次のページがあって、次々めくっていくうちに、やがて最後のページに辿り着く一冊の本のようなものだと思っていたが、人生は、本の中の物語とはまるで違っていた。
文字が並び、ページに番号は振ってあっても、筋がない。終わりはあっても、終わらない。疲れ、の感覚は、ある。いつも、疲れていた。疲れていない時はなかった。
人生に追われて生きていた時も、人生から逃れて生きてしまった時も――。はっきりと生きることなく、ただ生きていた気がする。でも、終わった。
ゆっくりと、いつものように見る。同じではないが似ている風景――。この単調な風景のどこかに、痛みが在る。この、似たような時間の中に、痛む瞬間が在る。
見てみる。たくさんの人が居る。みな、ひとりひとり違う。ひとりひとり、違う頭を持ち、違う顔を持ち、違う体を持ち、違う心を持っている。
それは、わかっている。でも、離れて見ると、同じか、似ているようにしか見えない。ひとりひとりの顔は、小さな水溜まりのようにしか見えない。
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