「なあ、君、恋慕とは罪だ。そうだろう?」
彼はいつもの軽薄な笑みを浮かべながら私に問いかけた。私は口に運び込もうとしていたグラスを机の上に再び置いた。
「罪とは穏やかではないな。恋慕はたしかに甘いだけではないと聞くが、だからといって罪というほどではあるまいに」
まるで『こころ』の先生のようなことを言う。私は呆れたように肩を竦めた。グラスの中の氷が軽い音を立てる。
「いいや、罪だ。恋慕は一見、あらゆる物語で美しいもののように描かれるが、その裏にあるのは情欲と本能に過ぎない」
「随分とひねくれた考え方だな」
どこか違和感を感じた。
彼は軽薄な人柄に似合わず、平生、乙女のようなロマンチストである。突然、何の前触れもなく、そんなに現実に寄った考えを口にするような奴ではない。
「何か、あったのか?」
「いいや、何もないとも」
相変わらず彼の笑みは変わらない。しかし、その細められた瞳の奥が獲物を捕らえんとする狡猾な鷹のように爛々と輝いているのが見えた。
「それよりも、質問に答えてくれないか」
「恋慕は罪だ。それは同意しよう。しかし、だからといって醜いものではない」
物語に描かれている恋愛は濾過された純粋なものである。しかし、現実は甘いよりも苦みの方が強いのが定石であろう。
恋愛とは複雑怪奇な代物で、人によって形が違うのもさることながら、相反するものとすらも結びつく厄介な性質を持っている。
彼が言うように情欲もそのひとつである。憎悪や興味、執着、愛情、偽善、欲望、支配、裏切り。挙げていけばきりがない。
しかし、私は思うのだ。それらの暗澹とした感情がなければ、恋愛は薄っぺらで味気ないものになり果ててしまうだろう。
暗い感情はさながら漆黒のドレスである。恋愛がそれを身にまとうことで妖艶で抗いがたい魔性的な美しさを持つようになるのだ。
仄暗いからこその恋である。それこそがこの世でもっとも美しい愛の形だ。
私がそういったようなことを言うと、彼はああ、なるほど、なるほど、と静かに呟いた。
「であるならば、さながら君の恋愛は美しいだろうね」
彼のその言葉に、私は胸を矢で刺されたかのような錯覚を覚えた。呼吸が苦しくなる。軽佻浮薄な彼の笑みが、とても怖ろしく歪んで見えた。
「なあ、君はどの『門』をくぐるだろうか」
最後の門
そもそも、私は罪を犯すつもりなどなかったのだ。
きっかけは彼女からであった。彼女が迫ってきたのは彼が電話をするために席を離していた時のことである。
「ねえ、今度、二人だけで、会えない?」
彼女と私は、彼と彼女が交際する以前から親交があった。二人きりで彼女と会うことに躊躇があったが、私は友人として頷いたのだ。
まさか、そこから私と彼女の不義が始まるとは思いもしなかった。
彼女と彼の交際は彼の告白から始まった。硬派な彼にしては珍しいこともあると思ったものである。
しかし、奔放な彼女にとって、彼との交際はそれなりに窮屈なものであったらしい。気まずくなった二人の仲介をしたのは一度や二度だけではなかった。
二人きりで会った時、彼女は涙ながらに彼への不満を吐露しながら迫ってきた。私にとっての彼女は魅力的な友人であり、私は抗いきれなかった。
以来、私はいつだって彼に怯えていた。友人として変わらず接しながら、内心では彼にいつ罪人だと露見されるか慄いていたのである。
だからだろうか、私の胸には罪を暴かれたにもかかわらず奇妙な平静が居座っていた。
私は彼の家の門前に立ち、呼び出しのベルを見つめる。押したくない思いと押さねばならぬという強迫が私の心で葛藤していた。
私は夏目漱石先生の『門』を思い出す。宗助は唐突に自分の罪と再び相見えて乱れた心を正そうと、禅寺の門をくぐった。
禅寺は彼の心にとって逃避であった。現実を自らの手で敵に回してしまった彼は現実から離れられる場所だけが頼れるところだった。
しかし、逃避はあくまでも結果の先延ばしに過ぎない。彼は禅寺の門をくぐっても、現実を変えることはできなかった。
私の目の前の門は現実への門である。私は今から唯一無二の親友を裏切ろうとしている。
私は宗助と同じだ。この門の先にはきっと我が身の破滅しかないだろう。私は宗助がかつて罪を犯したその瞬間に立っているのだ。
私は門に足を踏み出す。その先には、私の罪を断罪せんとする彼が、いつもの軽薄な笑みを引っ込めて冷たい瞳で私を見据えていた。
社会の片隅でひっそりと暮らす夫婦を追い詰める過去の罪
二年の時、宗助は大学を去らなければならないことになった。東京の家にも帰れなくなった。
京都からすぐに広島に行って、半年ばかりの頃に父が亡くなった。母はもういない。だから後には二十五六の妾と十六になる小六が残っただけであった。
伯父の佐伯はいろいろなことに手を出しては失敗する事業家である。父の葬式の後、調べてみるとあると思っていた財産は少なく、ないつもりの借金が多かった。
仕方がないから妾には暇を出し、小六は伯父の家に引き取ってもらって、家の売却を伯父に一任して家の始末をすることにした。
ようよう用事をつけて伯父の家を訪れると、叔父夫婦とすっかり大きくなって見違えた小六が宗助と妻の御米を出迎えた。
彼から話を聞いたところによると、家は売れて借金も支払ったが、余った分の金は伯父が使ってしまったとのことであった。
金はない。しかし、小六の学費が目下の問題としてそびえていた。夫婦は金の用意に奔走するも上手くいかない。
宗助と御米とは仲の良い夫婦に違いなかった。尋常の夫婦に見出しがたい親和と飽満と倦怠とを兼ね備えていた。世間に疎いだけ仲の良い夫婦だったのである。
しかし、彼らは過去に罪を犯していた。勘当されてもおかしくないほどの罪である。
かつて、宗助は安井という男と親友であった。御米は彼の妻だったのだ。二人は安井を裏切って結ばれたのである。
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