非人情に惹かれた青年画家の芸術に浸る旅路の出会い『草枕』夏目漱石


 道行く木立の葉の隙間から日の光が射しこんでいる。葉に溜まった朝露の残り香が明かりを浴びて輝いた。

 

 

 山路は静かかと思いきや、そういうわけでもない。山路は山路で、都会の喧騒とは異なる騒々しさがある。

 

 

 風に揺られて露を払う木の葉の囁き。木々の間を縫って飛び交う小鳥の声。俗世間からひとたび離れて耳を傾けてみれば、静けさの中にも命のざわめきが身をひそめている。

 

 

 それでも自然の呼吸の中に、幽かながらも人の息吹というものが感じられるのだから、なんとも人というのは世のどこにいても見失うことがない。

 

 

 山中にある民家はどことなく浮世離れした風情があろう。しかし、山中に見える団子屋台はどこか人間の温かみを醸している。

 

 

 緑色の団子の弾力ある生地の面にはちらほらとヨモギの葉の欠片が顔を覗かせている。かぶりつくと甘みのある餅と仄かな苦みが私の味覚を迎えた。

 

 

 後から口の中に押し寄せるのはねっとりと絡みつく餡である。歩き疲れた身体に濃厚な甘味が染み渡り、足の痛みも潮のように引いていくかのようであった。

 

 

「どうでしょうか、お味は? こんな田舎の団子屋となりますと、都会の方のお気に召すかはわかりませんが……」

 

 

 屋台の奥から老婆が顔を出す。紙を丸めたようにして笑う老婆の顔には、彼女の生きてきた年月を誇るかのような皴が刻まれている。

 

 

「いえいえ、実に美味ですよ。自然の風を感じながら団子を頬張るというのも中々に風情のあるものですなあ」

 

 

 それはようござんした。私の答えに、老婆は顔の皴を深めた。目尻の垂れた瞳を糸のように細めた飾り気のない笑みは奇妙な愛嬌がある。

 

 

「旦那は何をしにこんなところまで?」

 

 

「手前、しがない一画家にございまして……人里を離れたところに美を探求すべく、こうして流浪の旅に出ているのでございます」

 

 

 私は持ち歩く鞄の蓋をちらりと覗かせた。老婆の視界には鞄の中に収められた画板が見えていることだろう。

 

 

「ははあ、こんな時分に珍しいもので……。まるで夏目漱石の『草枕』のようでございますねえ」

 

 

「ふむ、『草枕』? そいつは何かね?」

 

 

「人里で読まれている書物のことですよ。流行ったのは一昔前であるようですが、まだ人気があるようで。私も以前、降りた時につい、買ってきてしまいまして」

 

 

 なんでも、夏目漱石という、世に名を馳せた文豪の書いた作品であるらしい。読めるかね、と聞くと、お待ちをと答えて老婆は店の奥へと引っ込んでいった。

 

 

 生憎と、生涯を絵に費やした私は文学には殊更に疎い。夏目漱石という名すらも我が脳が知っているか怪しいものである。

 

 

「へい、こちらにございます」

 

 

 老婆が差し出したのは、一冊の古ぼけた本であった。なるほど、たしかに『草枕』と書かれている。

 

 

「どんな作品かね?」

 

 

 老婆いわく、それは流浪の画家が山中を歩いているところから始まるという。彼は旅路の末にとある旅館へと辿り着く。

 

 

 そこで出会ったのは那美という女であった。美しくありながら、奇癖を持つために「変わり者」として囁かれている。

 

 

 画家は彼女から絵を描いてほしいとせがまれた。しかし、画家は断った。彼女の顔には、足りないものがある、と。

 

 

 古めかしい言葉遣いでありながら、不思議とその物語はすんなりと頭の中に入ってくる。

 

 

 芸術について語るのは興味がない者には退屈かもしれない。しかし、画家である自分としてはなかなかに興味深い講釈であった。

 

 

 気が付けば、すでに日は随分と高く昇っている。そろそろ出ねば、次の宿に辿り着くまでに日が落ちてしまうだろう。

 

 

 奥に引っ込んでいた老婆がひょいと顔を出す。その手には木で細工を成した盆が載せられていた。

 

 

「ああ、どうも」

 

 

 私は中途まで目を通した本のページを閉じて、座る朱色の長椅子に放ると、老婆の差し出した備前焼の器を手に取った。

 

 

 浅い器の中には濃緑色の抹茶がなみなみと注がれている。私が口元で傾けると、餡の甘みの未だ残る口内を抹茶の苦みが流していった。

 

 

 ほうと息を吐く。凪いだ心に浮かんでくるのは、やはり先まで目を通したばかりの書のことである。

 

 

 『草枕』の画家は感情を徹底的に排して、ただ自然のありのままの姿を見てこそが美であると称する。

 

 

 ハムレットやオフィーリアのような西洋芸術の現わす激しい感情の美ではなく、東洋の雄大な自然こそが真の美しさを持つのだと。

 

 

 那美は美しく、非人情な女であった。故にこそ、画家は彼女の底知れなさに恋ならざる恋をしたのであろう。

 

 

 なるほど、彼の説く美しさはたしかに真理であろう。しかし、真理がひとつであるとは限るまい。

 

 

 私もまた、非人情を好んで画具を引っ掴んで山を歩いている。言葉にて描かれた彼の姿とも重なろう。

 

 

 しかし、私はこの非人情の中にある情の欠片こそが美しいと思うのだ。そこには俗のそれとは違う、超常的な何かがある。

 

 

 私は老婆に団子の礼を言って本を返した。老婆は山姥のような笑みを浮かべる。それはどこか仙気を帯びているようにも思えるのだ。

 

 

 芸術にはいくつもの真理がある。しかし、そのどれもが明確な輪郭を持たず、印象派の絵画のように靄がかっているのである。

 

 

 我々は形を持たず、答えを持たないそれを生涯追い続けなければならない。芸術家とは旅人である。

 

 

 旅の末に待つ果ては未だ見えない。一生のうちに辿り着くことはないであろう。しかし、それでよいのだ。辿り着くばかりが全てではない。

 

 

 辿り着けば、さらなる先が見えてくる。旅に終わりはなく、旅しようと思う限り旅は続く。やめるは易いが、歩き続けなければ旅ではない。

 

 

 私は老婆に改めて礼を述べて立ち上がった。山の天気は変わりやすいという。吹く風が少しの湿り気を帯びていた。

 

 

 兎角に人の世は住みにくい。しかし、その俗すらもまた風情であろう。私は胸中でひそやかに嘯いた。

 

 

非人情を求める画家と宿の変わり者の女との出会い

 

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。

 

 

 二十世紀に睡眠が必要ならば、二十世紀にこの出世間的の詩味は大切である。こういう感興が自分には何より大切であろうと思う。

 

 

 ただ一人、絵の具箱と三脚几を担いで山路を歩いているのもそのためである。古人の詩境を自然から吸収して非人情の天地に逍遥したいが故のひとつの酔狂だ。

 

 

 しかし、いくら好きでも、非人情は長くは続かぬ。山を越えて落ち着く先の今宵の宿は、那古井の温泉場である。

 

 

 宿に着いたのは夜の八時頃であった。床に入ると、どこからか歌のようなものが聞こえてくる。余は堪らなくなって布団をすり抜けると障子を開けた。

 

 

 そこにいたのは朦朧たる影法師である。部屋続きの棟の角が背の高い女姿をすぐに遮ってしまう。

 

 

 余は感じたものを一歩引いて見定めるために、写生帖を開けて枕元へ置く。いくつかの詩を読むと、いつしかうとうとと眠くなった。

 

 

 閉じた瞼の裏に舞い込んだのは幻影の女である。女は戸棚で何やらをして、入り口の唐紙を閉めた。

 

 

 翌朝、顔を見せたのは静と動、悟りと迷い、顔に統一感のない女であった。

 

 

 彼女は那美といった。亭主と別れ、ある人からは賢いと呼ばれ、ある人からは気がおかしいと言われる女である。

 

 

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