「あなたが犠牲になれば、世界が救われます」
白衣を着た表情のない男は、感情の見えない平坦な口調でそんなことを言った。
私はまず、この人は何を言っているのか、と戸惑った。私に彼と会うよう言ってきた上司の話では、界隈で知らない人はいないほどの大人物であるらしいが。
これは初対面の相手を和ませるための、彼なりの冗談なのではないか。ならば、私は笑うべきなのか。
とも思ったが、男の表情はとても冗談を言っている顔ではない。何の表情も見えないその鉄面皮は、ともすればロボットと相対している錯覚すら感じさせた。
「えっと……」
結果として、私ができたのはいかにも戸惑った声色で力なく呟くことだけだった。我ながら最悪の結果ではなかろうか。
「あなたが犠牲になれば、世界が救われます」
けれど、彼は気を悪くするでもなく、変わらない調子のまま同じ言葉をもう一度繰り返した。
さすがに、掴みの冗談を繰り返すことはないだろう。とすると、彼の言葉には何らかの意味があるということだ。
「どういうことですか」
「戸惑うのも無理はありません」
もちろん、説明させていただきます。と、彼は続けた。資料を渡される。めくってみるが、書かれている内容は専門用語ばかりで意味はわからなかった。
彼もまた、それを承知しているのだろう。しかし、彼の口から語られるその言葉は、あまりにも荒唐無稽なものだった。
彼は研究者らしい。その研究分野は、未来と過去。つまりは、タイムマシンのような時間超越やタイムパラドックスなどの研究なのだそうだ。
そして、彼の言うところでは、すでに制約付きではあるが、タイムマシンのような技術は実現しているとのことだ。到底信じられない。
そこで、彼が再三繰り返した言葉に返ってくる。すなわち、私が絡んでくるというわけだ。
彼は実験の末に、ある驚愕の事実を明らかにしたのだという。
今から数十年後、数万を超えるほどの被害が想定される未曽有の大災害が発生するらしい。
「未来を変えるには、ターニングポイントとなる人物や事象を変えることが必要になります」
しかし、未来を変えた結果、本来は出ないはずの被害が出ることも生じることがある。犠牲がまったくない、といううまい話はないらしい。とはいえ、彼はその犠牲をできる限り減らした最善を見つけ出している。
彼の研究によると、その未曽有の大災害を改変することで犠牲をひとりに減らすことができるのだという。しかし、どう計算しても、そこまでが限界だった。
「そして、そのひとりが、あなたです」
彼が会いに来たのは、そういうことらしい。
誰にも知られないヒーロー
一晩だけ、猶予があります。もしも、決心が固まったら、こちらの電話番号に連絡をお願いします。
彼はそう言って立ち去っていった。白衣を纏った彼の背中に、私はひとつだけ、質問を投げかけた。
「断ることは、可能ですか?」
「可能です。その場合、私どもの計算した未来の悲劇は現実のものとなるでしょう」
「つまり、何万もの人が」
「ええ、亡くなるでしょうね」
「それでも、断ることができるんですか」
私がそう聞くと、彼は初めて表情を変えた。どこか困ったように、視線を泳がせる。
「私もまだ、正解が出ていないのです」
「正解、とは」
「合理的に考えれば、私はひとりを犠牲にして、未来の世界を救うべきなのでしょう。ですが」
はたして私は、未来を知ったうえで赤子のヒトラーを正義のために手を掛けることができるのか、とも、思うのです。
彼はそう言って立ち去った。その背中に見える迷いは、彼が初めて見せる人間らしさだった。
未来は不確定なものだ。計算上はそれが起こるとされていても、実現するかはその時にならないとわからない。
そんな不確定な未来のために、今、確実に生きている命を失くしてしまってもいいのか、と。
未来の世界を取るか。それとも、現在のひとりを選ぶか。彼はその選択が苦悩だった。だからこそ、本人に選択肢を取らせることにしたのだという。
ふざけるな、と思う。それならば、いっそ、せめて何も知らされないまま実行してほしかった。
私はヒーローに憧れたことがある。世界の危機からみんなを救うヒーローに。彼らの戦う姿を、応援しながら見ていた。
世界のために、私自身が犠牲になる。けれど、世界の誰も私が世界を救ったとは知らない。名誉も、何もそこにはないのだ。
私は自問自答する。どうするべきか。家族や友人、恋人、私の大切な人たちが、浮かんでは消えた。ふっと息を吐いて、覚悟を決める。
私は電話を手に取って、電話番号を打ち込んだ。人を救いたい。それこそが、ヒーローの目的だろう。名声や感謝の声ではないのだ。
「いいんですね?」
彼は電話口の先で、静かに問うた。
人は人生のどこかで、勇気を試される
グラウンドは緑の海だ。照明で照らされ、色鮮やかな芝が広がっている。ロスタイムは今やかき消える寸前だ。観客は固唾を飲み、その視線の移動だけが音を立てている。
唐突に波がうねった。ボールが芝を揺らし、右サイドへと飛んだ。走りこんできた小津が脚を動かし、右足でボールを受け止めた瞬間、競技場の観客たちの声が地面を震わせた。
優れた人間には席が用意されている。この試合、失敗を繰り返しているとはいえ、小津は日本代表の要であり、日本が持ち腐れにしている選手だ。長身のディフェンダーがすかさず小津に詰め寄る。
小津は右足アウトサイドでボールを蹴り出した。小津の身体の後ろ側をボールが横移動するのに翻弄され、ディフェンダーはバランスを崩す。
もうひとりのディフェンダーは小津の方向転換に翻弄されて足を滑らし、倒れた。キーパーは完全に重心のかけ方を誤り、シュート体勢に入った小津を横目に、身体を起こすことができないでいる。
ゴールと小津の間には誰もおらず、目の前に広がるネットにボールを蹴りこむだけだった。
すると、身体が倒れた。背後から滑り込んできたディフェンダーの右足が、小津の軸足に激突したのだ。反り返った後で、小津は前に倒れグラウンドに手をつく。
主審の笛が、鋭い大きな声を発した。赤いカードを取り出し、イラク人ディフェンダーに向ける。観客席からの声が爆発し、緑の芝の海は、蛇腹が揺れるかのように波打つ。PKだ。
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