「では、誰か学級委員長を決めましょう」
先生の声。教室が一瞬、静寂に包まれた。ちらちらとみんなが視線を周りに走らせている。声のない無言の「お前が行けよ」が、聞こえたような気がした。
羊が必要なのだ。生贄の羊が。お前が行け。早くしろ。クラスの派手な女の子の、責めるような視線が、私に突き刺さっていた。
「はい、じゃあ、他に希望者は、いませんね。では、お願いしますね」
手を挙げた私に、先生が微笑みを浮かべた。助かったと顔に書いてある。先生の後に続いてクラスのみんなが拍手する。その音の、ああ、なんて渇いた響きなのだろう。
いつのことだったろうか、「KY」という言葉が流行したことがあった。
いわゆる略語で、「空気が読めない」という意味だ。私たちはその言葉の響きに惚れ惚れし、自分が「KY」と呼ばれることを誰もが恐怖していた。
その二文字のアルファベットは、一種の恐慌を生み出した。「KY」という称号をつけられたということは、まるで自分が罪人となったかのような絶望を感じさせた。
だから、当時の私たちは必死だった。必死になって、読むことなんてできやしない空気を読もうとしていたのだ。
中野信子先生の『空気を読む脳』という作品を読んだ。
空気を読む。日本人は、そのことを何より大切にする。自分が異質であることを嫌い、集団の中に溶けようとする。
私は、本当は図書委員になりたかったのだ。学級委員長なんてやりたくなかった。
でも、私はあの瞬間、ぞっとしたのだ。クラスのみんなの、あの冷たい目。それが自分たちの「仲間」かどうかを確かめるような、無機質な瞳。
日本人は「協調性」を大切にすると、昔から言われてきた。それこそが日本人のいいところだ。みんなはひとりのため。ひとりはみんなのため。なんてきれいな言葉。
けれど、ひとたび仲間から外されたら。仲間ではない人間に対して、日本人はおぞましいほど冷酷になれる。
個性が大事、なんて、先生からはよく言われる。みんな、それをわかったような顔をして聞いていた。
けれど、個性なんて、ほんの少しでも顔を出せば、「見つけた」とばかりに叩くのに、大事にできるはずもない。
先生も、大人も、世間も、それぞれ違っている私たちを、叩いて、こねて、潰して、できるだけ同じような形にしようと躍起になっている。
いい大学に通って、いい会社に就職し、育ててくれた親に感謝して、結婚して、幸せな人生を歩むんだ。
大人たちの言うその未来は、本当に私の幸せなのだろうか。私の幸せなのに、どうして他人が知っているのだろうか。
いい歯車になれ。社会を回すための、便利な歯車に。そう言われているような気がした。
大学なんて行きたくない。働いたら負けかなと思っている。親のことが嫌いだ。結婚なんてしたくない。
ああ、でも、それじゃあいけない。空気。そう、空気を読まなければいけない。じゃないと、私だけが道から外れてしまう。
みんなが赤信号を渡っている。私も、渡らなければ。たとえ、それが間違っている道だとわかっていても。空気を読んでいれば、なにもかもがうまくいくのだから。
そんな生涯だった。寝たきりになってしまった身体の痛みの中で、私は幸せに満ちた人生を振り返る。
ふと、思った。私はいったい、誰の人生を送ってきたのだろう。それが、私の最期の記憶だった。
恥の文化
日本人は、「恩」や「義理」を大切にし、何かを受け取ったならば相応のものを相手に返していこうとする――と、かつてアメリカの文化人類学者、ルース・ベネディクトは論じました。
彼は恥の概念もまた、恩と義理でとらえられると分析しています。恥を知る人間は恩や義理を忘れず、どこかでそれに報いたいと行動するものである、というのです。
この議論の中には、同調圧力に従いやすく、不安が高く、社会的排除を起こしやすい日本人の特質が端的に現れています。
互酬性というのは、何かをしてもらう、あるいは与えてもらった時にはそれに対して報いなければならないという心理状態が誘起される、という現象です。
返報性の原理は以前、文化人類学者の間では古代の社会に見られる性質だとみなされていたという経緯があります。
ただ、現在ではどちらかといえば、文化の一方を未開などと評じる見方こそが、やや古臭い感を与えてしまうものではあると申し添えておきます。
日本は大変面白い、特色ゆたかな国であります。ただ、異なる文化のどちらが優れているか、そんなことを議論するのはあまり意味がありません。
現実社会に生きている我々にとって重要なのは、違いを知ることによって自分の良きところを理解し、またそれを活かし、他者の良きところを学び、それを見たいに資することではないでしょうか。
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