手にずしりと響く紙束の重みが心地よく、仄かに泳ぐインクの香りを胸いっぱいに吸い込むと、私はまるで、天にも昇るような気持ちになるのです。
いわゆる、「本の虫」。私は幼い頃からずっと、本が大好きでした。愛していると言っても過言ではないくらい。
活字であるものならば、なんでも読みました。活字を目で追いかけるという行為が楽しくて仕方がないのです。私の瞳の足音と共に、活字の世界に肉付けされていくような快感がありました。
専門書や教科書も嫌いではないのですが、やはり、私がもっとも好きなのは物語です。それはまるで、私がその世界に行っているような楽しみがあったのです。
その中でも、私が好んで読むのは恋愛小説でした。男性であれ、女性であれ、甘く、切なく、もどかしい物語は、思わず身悶えするほどかわいらしいのです。
私自身は恋なんてしたことはありませんが、私の抱く本への一方的な想いと重ね合わせれば、返事のない切なさに、思わず共感を抱いてしまいます。
さて、私がこよなく愛する本なのですが、昨今、その姿を大きく変えつつあります。
誰も彼も眺めているのはスマホの画面ばかり。しかし、聞いてみれば、「小説を読んでいる」と言うのです。
はてどういうことかと数少ない友人に聞いてみれば、なんと、スマホで無料で小説が読めるというではありませんか。
そのまま、友人に「このサイトにいい小説があるよ」と紹介されてしまいました。それは、『虫かぶり姫』という作品らしいです。
私がこよなく愛しているのは本。あの紙束の重さや、古びた歴史の香りが素晴らしいのではありませんか。と、思えば、スマホを片手に持つのはどこか浮気しているような罪悪感を感じます。
しかし、友人に勧められたこともあり、このまま手を出さないのも失礼かと思いまして、私は未知の世界へと足を踏み入れたのです。
『虫かぶり姫』は、中世のような貴族社会を舞台にした恋愛小説のよう。ネット小説ではそんな世界観が多いのだとか。
ここでいう「虫」は、あの小さくて足が何本もある虫のことではなく、「本の虫」のこと。
つまり、「虫かぶり姫」ことエリアーナ・ベルンシュタインはこよなく本を愛する変わり者の令嬢なのでありました。
彼女は王子であるクリストファーと婚約しています。しかし、それも恋愛感情ではなく、「王宮の書庫に行けるから」という理由から。
おかげで社交の必要もなく、思うがままに読書を楽しんでいたエリアーナでしたが、ある時、彼らの間に暗雲が立ち込めます。
気づけば王子のそばにいるひとりの少女。二人の笑い合っている姿を見ると、エリアーナの胸がずきんと痛みます。
仮の婚約者としての私の役目は、終わったのかもしれない。そんな現実がのしかかって、彼女は初めて、自分の中に芽生えた想いを自覚したのです。
気が付けば、夢中になって読んでいました。横書きの文字にはなかなか慣れませんでしたが、物語の世界に入ると、そんなものは忘れていました。
私と同じ「本の虫」であるエリアーナ。彼女の苦悩と困惑に、思わず自分を重ねてしまいます。
本をこよなく愛する令嬢の初恋は、果たしてどのような結末になるのでしょう。その恋は、どのような物語を紡ぐのでしょう。
やはり、スマホの重みは物足りない。けれど、その中にある物語は、紙束に負けず劣らない想いが込められていました。
私にも、いつか。本よりも愛おしい人と出会う時が来るのでしょうか。とはいえ、その時は随分と先になりそうですね。
本よりも好きな彼
聞き覚えのある笑い声が響いてきた時、私はあやうく梯子から足を踏み外すところでした。
びっくりして視線をおろせば、窓の外の木陰に二人の人影が見えました。お一人はとてもよく知っているお方です。
我がサウズリンド王国第一王位継承者、クリストファー殿下。御年二十一になられる、聡明で英邁な、将来を期待される若き王太子さまです。
権謀術数ひしめくこの王宮内で無防備なそのご様子に、わたしの胸は鋭く重たく痛みました。そうして、そっとため息を吐きました。その時が来たのだと。
殿下と一緒におられるもうお一人は、最近後宮へ行儀見習いに上がったという子爵家のご令嬢です。
お名前をアイリーン・パルカスさまとおっしゃられたと思います。最近、何かと話題のそのお方を、わたしは遠目に拝見しておりました。
殿下とアイリーン嬢のご様子には傍目にも親密な空気があり、アイリーン嬢のひたむきで一途な眼差しからは、言葉にせずとも殿下への想いが伝わってくるようです。
わたくし、エリアーナ・ベルンシュタインは十四の歳からクリストファー殿下の婚約者としてお側にお仕えしてまいりました。
ベルンシュタイン家の人間は三度の飯より本が好き、という変わり者ばかりで、かく言うわたしもその例にもれず、字を覚える前から書物に埋もれて育ってまいりました。
ドレスや宝石よりも本を好むわたしについたあだ名は――本の虫ならぬ、「虫かぶり姫」という、普通なら不名誉に嘆いて然るべきものでした。
初めてお会いした時に、クリストファー殿下はそのきらきらしいご容姿を輝かせておっしゃいました。
「エリアーナ嬢。どこかの家のご夫人に収まって家政に追われ、貴婦人同士の交流会に振り回される未来よりも、私の隣りで本を読むだけの生活を手に入れないかい?」
どのみち、王族からの申し出を弱小貴族が断れるはずもありません。つまり殿下は、恋愛感情抜きで一令嬢に過ぎないわたしに取引を申し出てくれたようです。
以来四年間、人前にあまり出ない名ばかりの王太子婚約者として、とりあえずはつつがなく過ごしてまいりました。
わたしたちの間に恋愛感情はなく、あったのはただの、年頃の男女が周囲から求められる立場への共闘のみ。
そして今。わたしは殿下が婚約破棄される日を、まるで読んだことがある物語のように理解してその時が来たことを知ったのでした。
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