幼い頃、私は絵本に書かれている物語を、本当にあったことだと信じていた。それが虚構だと知った今でも、時折、本当にあったのではないかと心の片隅で思うことがある。
親は私を「純粋」だと言った。親友は私を「素直」だと言った。私を嫌う者は私を「バカ」だと言った。
私には、昔から悪癖があった。文字に書かれていることを、疑うことができず、なんでも信用してしまうのだ。
人に対して疑心を抱くことはあった。それなのに、どうしてか、本のことを、私は疑うことができなかった。
小説がフィクションであることは、私にもわかっていた。しかし、心のどこかでは、やはり、私はそれがフィクションではないことを信じたいのではなかったのだろうか。
文字は嘘つきだ。それは決して真実を語らない。一見、真実を語る文字の背後には、いつだって人間がいる。作家ほど嘘を吐く人間は、いない。
自分が作家になってもまだ、私はそんなことを思っていた。私は自分の手で文字を紡ぎ、かつての私のような純粋な子どもを騙し続けている。
作家になった私は、自分に戒めていることがひとつだけあった。それは、自分の正体を決して誰にも知られないようにすることだ。
世間には、私はいわゆる覆面作家としてデビューした。それは、私にとって、ひとつの矜持のためだった。
私が作家になったきっかけ。それは、折原一先生の『覆面作家』を読んだことだった。
その本を読んだ時、私は衝撃を受けた。混ざっていく現実と虚構。虚構がやがて現実に追いつき、追い越していく。
私は折原先生ほど巧みに嘘を吐く作家を見たことがなかった。そして、私はその嘘の魅力にとりつかれたのである。
七年間の失踪を経て、別荘へと帰ってきた作家、西田操。彼はひとり別荘にこもり、七年ぶりに作品の執筆に取り掛かる。
彼が書く作品のタイトルは『覆面作家』。彼はその言葉通り覆面を被り、執筆に勤しんでいた。
『覆面作家』は七年前の西田操自身が事故によって顔と足の自由を失ったところから始まり、作家としてデビューする過程を描く。
しかし、やがてその作品をなぞるように、彼の周りでは奇妙なことが起こり始める。
家で感じる違和感。まるで誰かが自分を見張っているような。上階から響く物音。自分以外の誰かが、家にいる。
書き上げていく『覆面作家』という虚構は、やがて現実を飲み込んでいく。何が現実で、何が虚構か。その境目が曖昧になっていく。
信じていた展開が覆される快楽。何度も、何度も、繰り返し、真実が二転三転と入れ替わっていく。
作中の人物は誰も彼も嘘つきで、作品そのものも嘘で、もう何が真実かわからない。
今ならば、わかる。どうして私がそれほどまでにその作品に惹かれたのか。
真実を明らかにする。いや、むしろ、そうしなければならないというかのような、強圧的な姿勢。正義という名の下に行われる公開処刑。
私はそれがたまらなく嫌いだった。だからこそ、私は嘘に惹かれたのだ。その作品は、真実がいかに脆く、あっけなく崩れ去っていくのかを教えてくれたから。
私の顔には覆面が被されている。覆面作家だから、ではない。私は「自分」という覆面を被り、今まで生きてきたのだ。
嘘つきだ、どいつもこいつも。私は彼らが恐ろしくて仕方がない。自分が嘘を吐いていることに気付かず、正直者面をしている彼らが。
私はパソコンのキーを叩く。覆面の下から、私は虚構を紡いでいた。自分の真っ白な何もないのっぺらぼうが、私を世の中から守ってくれる。
覆面作家の素顔
推理作家の西田操氏が謎の書き置きを残して失踪したことが、今、ちょっとした話題になっている。西田操氏といえば、そのデビューが衝撃的だった。
交通事故によって、大火傷を負い、両足を複雑骨折したが、その闘病中に書いた『完全犯罪』で推理小説の新人賞を勝ち取り、話題を呼んだ。
年齢は三十代前半の男性であることくらいしか公表されておらず、その謎めいた経歴ゆえに「覆面作家」と呼ばれていた。
西田氏は奥多摩の山奥に別荘を購入し、そこを拠点に執筆活動を続けるつもりだったらしいが、二作目がなかなか書けなかったという。
失踪する直前は、それが精神的重圧になってふさぎこんでいた、と夫人は語っている。
「主人が絶望の淵にいた時、私が小説を書くことを勧めたのです。それが脚光を浴びたまではよかったのですが、二作目のプレッシャーが主人を押し潰したのです」
西田氏が失踪したのは、八月三十一日の夜。東京へ所用で出かけていた夫人が帰宅した時には、姿を消していたという。
書斎のワープロがつけっ放しになっており、画面には書き置きが残されていた。夫人は今、西田氏が残したワープロの原稿を出版するかどうか検討している。
「私は疲れた。すべてに自信がなくなった。七年経ったら、戻ってくるから、探さないでくれ」
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