「暴力はいつだって悪いのか」
目の前に座る異形の猿はいかにも不服そうにその赤い顔を歪めて、不貞腐れるように吐き捨てた。
彼は赤地に金の装飾が施された鎧を身にまとい、頭には金色に輝く輪をつけている。スーツ姿の私と向かい合うその光景は異様に見えるだろう。
「たしかに俺はかつて天上で好き勝手暴れていたさ。冥界十王を懲らしめたりもしたし、仙桃もたらふくたいらげた。だがよお、だからといって俺ばかりが悪者かい」
舌打ちする彼は不老不死の上仙には見えない。むしろ、親に反発する思春期の少年のような微笑ましさすら感じられる。私は苦笑とともに答えた。
「暴力が悪とされるのは社会の風潮だろうね。暴力が許されてしまえば、この世はそれこそ世紀末のようになってしまう」
法律は私たちを人間たらしめる金の輪だ。私たちが悪さをすると、金の輪が私たちを絞めつけて、苦しめる。
「だが、たとえば、だ。いじめを受けていた生徒が反抗していじめていた生徒に拳を振るったとしよう。この場合、悪いのはどっちだ?」
「いじめの程度にもよるが、教師は拳を振るった方が悪いと判断するだろうね」
「だが、彼はいじめられていた被害者だ。きっかけを作ったのはいじめていた側なのに、どうして被害者が責められるんだ?」
「先に手を出したら負けだよ。話し合いじゃあなくて暴力という手段に訴えることで、彼は被害者から加害者側に変わったんだ」
私が肩を竦めてそう言うと、彼は凶暴な形相をさらに険しくした。口元が皮肉げに歪む。
「じゃあ、我慢しろってか。それで、相手に向けることができない暴力が自分自身に向かうのに?」
あんたらのそういった態度が、被害者を崖際に追い詰めてんだぜ。逃げ場を失ったそいつらがどこに向かうか、わかるだろ?
彼の言い分はたしかに頷ける。しかし、難しい問題だ。私たちだってどうにかしなければならないと自覚しているのだ。
「だが、暴力はいけないことだ。それが社会の常識ってものだよ」
「あんたらはことあるごとに常識が常識がと口にするよな。だが、その常識とやらが正しいという証明はいったい誰がするんだ?」
「それは……世間だ。私たちが生きるこの社会そのものが証明してくれる。常識を守っているから、私たちは平和に暮らせているじゃあないか」
「じゃあ、平和に暮らせていないその被害者は社会に暮らす人からは外れてるってことかい?」
私はいよいよ答えられない。
「常識ってやつが本当に悪いやつを守ってんのさ。いじめているやつが悪いのは誰が見てもわかるだろ。だが、常識はいじめられているやつが悪いって言ってやがる」
暴力はいつだって悪なのか。かつて、天帝という世界を統べる常識に牙を剥いた猿が言った。
「その拳は悪を懲らしめているだけだろ。何が悪いってんだ」
本当に悪いのは誰?
私は読み終わった本を閉じる。伊坂幸太郎先生の『SOSの猿』という作品だ。
ネットで調べたところ、評判はあまりよろしくないらしい。私も読んでいて、どこか伊坂先生らしさが薄いように感じてはいた。
しかし、私はむしろ、それはおもしろさの種類が違っているからだろうと思った。
今までの伊坂先生の作品は伏線を駆使した最後の大どんでん返しからくる爽快感を魅せたエンターテインメント性の高いものだった。
しかし、この『SOSの猿』は、もっと人間の深いところを追求しようとした作品なのではないかと感じる。
魅せるための作品ではなく、内面に問いかける作品なのだと。
本当に悪いのは誰か。本質へと向けた質問を、文字の上の猿は私に問いかけてくる。
「お前は社会常識が大事だと言ったな。だが、社会常識は悪を懲らしめてくれるのか」
いいや、懲らしめてはくれない。私は答えた。法律で裁けない悪というのはどうしても存在する。
俺たちの時代はもっと単純だった。やられたらやり返せばよかった。拳に対して頬を差し出すんじゃあなく、拳に対しては拳で語るのが当たり前だった。
なら、暴力を肯定しろというのか。私が問えば、彼は肩を竦める。俺に聞くことでもないだろう。この、斉天大聖たる俺に。私は猿をじろりと睨む。
「お前は、誰だ?」
猿は牙を剥いて笑った。
「俺はお前だよ。わかっていたことだろ」
俺はいつだってお前の中にいる。覚悟ができたならいつでも呼べ。俺が天上で大暴れしてやろう。
私は目の前を睨み付けた。そこの席には、誰もいない。
二つの物語が交錯しあうエンターテインメント
辺見のお姉さんが結婚し、町を出ていったのは私が中学生の時だ。まさか、二十二年も経って、息子である眞人のひきこもりのことを相談してくるとは、予想もしていなかった。
辺見のお姉さんは私のことを訪問カウンセラーをやっていると誤解しているようだった。
しかし、実際に私がやっているのは悪魔祓いである。依頼を受けたくなかった私は幻滅されてしまっても構わないという思いでそのことを伝えた。
私は誰かが困っている声や相談している話、嘆きや哀しげな話題が苦手だった。気にかかって仕方がないが、助けられない自分の無力感を痛感することになるからだ。
「これは本当に、心からのお願いだけど、ぜひ、眞人に会って。あの子もたぶん、泣いてるんだと思うの。痛い痛いって」
結局、私は彼女の依頼を受けることになった。
辺見のお姉さんは部屋を出て、私と眞人君だけが残っていた。眞人君の頭が上を向き、まっすぐに私と向き合う場所で止まる。
私は悪魔祓いの用意をおもむろに初めて、質問を試みてみるが、彼はいずれに対しても返事をしなかった。
彼は寝惚けたように瞼を半分閉じた状態だった。私の言葉を遮って、「そんのぎょうじゃ」と声が飛んできた。
「君は誰だ?」
私は何度か訊ねた。三十分もそういった状態が続いただろうか、瞼を閉じた眞人君の口が開いた。
「俺は東勝神洲傲来国は、花果山の生まれ、水簾洞主人にして、美猴王、斉天大聖、孫悟空」
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