記憶の断片が真実を映し出す『最後の記憶』綾辻行人


 ああ、どうして。どうしてだろう。喜びの思い出は日が経つにつれて薄れて消えていくのに、幼い頃に感じたあの恐怖だけは、いつまで経っても忘れることができない。

 

 

 私はミステリやホラーの小説が好きで、高校生の頃からよく図書室に通っては読み漁っていた。

 

 

 中でも私が好きなのは、『Another』という作品だ。いつ、どこで、事件が起こるのか。読んでいる間、その緊張感は薄れることがなくて、その感覚はぞくぞくしたものだ。

 

 

 私が綾辻行人先生の作品が気になるようになったのは、その頃からだったと思う。それまでは名前こそ聞いたことはあっても、読もうとは思っていなかった。表紙が何か怖いし。

 

 

 次に読んだのは、『びっくり館』と呼ばれる館での事件を描いたものだ。『館シリーズ』という彼の作品シリーズの八作目に当たるらしい。

 

 

 先生の作品はどれもミステリでありながら、どこかホラーじみたおどろおどろしさが滲み出ている。その感覚が癖になっていた私は、すでに作品の世界から逃れられなくなっていた。

 

 

 しかし、彼の作品の中で、どうにも忘れられない作品があった。それは、彼の世界に耽溺するきっかけとなった『Another』とはまた違う理由によるものなのだけれど。

 

 

 私は綾辻先生のことをミステリ作家として認識している。ホラー色が強くとも、それは揺るがない。だから、『最後の記憶』を読んだ時は驚いたものだった。

 

 

 それは本格ホラー小説である。とはいえ、ミステリの要素もやはり交じり合っているようにも思えたけれど。

 

 

 記憶を失っていく病気にかかり、病院で寝たきりになった母。次第に自分の息子すらも忘れていく彼女が、しかし、怖れているものがあった。

 

 

 雷。顔のない男。そして、バッタの飛ぶ音。母の心に未だ暗い影を落としている、彼女がかつて経験したという凄惨な事件のパズルの欠片。

 

 

 幻覚を見るようになり、精神的に疲弊していった森吾は、母の記憶を辿るため、彼女の故郷を探す。そんな物語。

 

 

 思わず息を呑んだ真相は、たしかに恐ろしい。けれど、私がもっとも恐れたのは、作中の、とある事実だった。

 

 

 『印象が強い記憶が最後まで残る。彼女は終わりを迎えるその時まで、恐怖の記憶に怯え続けなければならない。それが、最後の記憶になってしまうんだ』

 

 

 その事実に気が付いた瞬間、私はぞっと背筋が寒くなった。自分がその時になった時のことを、思わず想像してしまったからだった。

 

 

 いつ来るかはわからない。けれど、いずれは私にもその時が訪れるだろう。それが、今までになく鮮明に頭の中に思い浮かんでくる。

 

 

 それは、作中の彼女に限った話じゃない。いずれ、私にも、訪れるかもしれない未来なのだ。

 

 

 人というものはどういうわけか、記憶の管理については随分と曖昧で、数十年前のことを覚えていることもあれば、昨日の夕食すら思い出せないこともある。

 

 

 その違いはやはり、記憶に関わる感情の強さの違いだろう。

 

 

 そこで不思議なことに、楽しい記憶や嬉しい記憶なんかよりも、恐怖の方が圧倒的に強く残る。

 

 

 私は中学生や高校生の頃の出来事を、ほとんど思い出すことができない。それだけ何もない、平坦な学校生活だった。

 

 

 楽しい思い出も、哀しい思い出も、あったはずなのだ。それなのに、記憶の中では、それはすでに遠い意識の奥底に消えている。

 

 

 けれど、未だに私の頭の中に鮮明に残っている記憶がある。それは、中学生の頃よりもずっと前、まだ小さな頃の思い出だった。

 

 

 夕陽が指す部屋に、幼い私はたった一人でいる。特に何をするわけでもない。ただ、ぼんやりと夕陽の差す窓を眺めていた。そんな思い出。

 

 

 誰かに襲われたわけでもない。何の鮮烈もない、ただ静けさだけが支配した思い出。けれど、その時の私の心にあったのは、間違いなく恐怖の感情だった。

 

 

 それはきっと、根源的なもの。襲われたり暴力を振るわれたりするよりも、さらに底の方にある恐怖。

 

 

 孤独。それが私がもっとも恐れる恐怖の正体だった。父も母もおらず、自分ひとりだけの部屋で、私はたしかに恐怖したのだ。

 

 

 人生に幕を下ろすその瞬間、私はその頃の、幼い自分の姿に戻るのかもしれない。

 

 

 なかなか帰ってこない父と母の帰りを待ちながら、夕日を眺めて、孤独を怖れ、そのまま私は孤独な夢の中で眠りにつくのだろう。

 

 

 きっと誰もが、その瞬間は自分の中にある最大の恐怖に苛まれながら迎えるのだろう。病身を襲う苦痛の中で。長く生き抜いた人生の先に待ち受けるのは、そんな未来。

 

 

 その時が来るのは、今よりずっと先のことなのかもしれないし、もしかしたら、明日のことなのかもしれない。それは誰にもわからないけれど。

 

 

母を襲う恐怖の記憶

 

 幼い日の夏の夕暮れに見た太陽はとても巨大で、熟れきったオレンジとリンゴをどろどろに溶かし合わせたような色をしていた。

 

 

 西の空を鮮やかに染め上げた夕陽のその色を指して、「あれはヒトの血の色」と教えてくれたのは、たしか母だったように思う。

 

 

「ぼくの中にも『血』があるの?」

 

 

 そうね。みんなの身体の中に血は流れているのよ。山の端に沈もうとしている夕陽に目を馳せたまま、母は静かに答えた。

 

 

 母さんの肌はこんなに白いのに。髪の毛はこんなに真っ黒なのに。中には夕陽と同じ色の「血」があるのだという、それが僕にはなんだか不思議だった。

 

 

 怪我をして、身体からたくさん血が外に出ちゃうとね、ヒトは死んでしまうの。そう言いながら、母は僕の手を握っていた指に力を込めた。あの時の母の手はひどく震えていたように思う。寒くもないのに。

 

 

 幼い日の冬の夜空に浮かんだ月はとても冴え冴えときれいだったけれど、見るたびに違う形をしているのが僕にはなんだか気味悪く思えた。

 

 

 暗い中天に昇った半欠けの月を指して、「あれは上弦の月」と教えてくれたのは、それも母だったように思う。

 

 

「どうしてお月様は形が変わるの」

 

 

 不思議ねえ。どうしてかしらね。僕と一緒になって首を傾げながら、母は楽しそうに微笑んでいたように思う。

 

 

 幼い日に見た母の笑顔は、いつもとても美しかった。そして彼女は、いつもとてもやさしかった。僕はそう記憶している。

 

 

 けれど、今。母は昔のように笑うことがほとんどない。美しくもなければ優しくもない。

 

 

 ベッドに横たわって、日がな一日ぼんやりしている。素晴らしい表情が欠落してしまった彼女の顔。

 

 

 何かの折に、ふとそこに滲み出してくる色は、激しい恐怖。とてつもなく激しい、物狂おしいほどの恐怖。もはやそれだけのようにさえ、僕には思える。

 

 

 バッタが。バッタの飛ぶ音が。

 

 

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