番町皿屋敷を元ネタにした悲劇『数えずの井戸』京極夏彦


 一枚、二枚、三枚、四枚、五枚、六枚、七枚、八枚、九枚……。若者は呆然として、井戸に立って皿を数える女の姿を見た。

 

 

 身体が震えて、若者は立っているのがやっとだった。女が振り向く。一枚、足りない。世にも恨めし形相を浮かべる女に、若者は悲鳴を上げた。それ以後、彼の姿を見た者はいない。

 

 

「……ハァン、いかにもな怪談話だねェ」

 

 

 キャアという黄色い悲鳴の中、ひとり、呆れた声で呟く女があった。彼女はたしか、都に出てきたばかりの女である。

 

 

「そいつを見た者がいないってんなら、誰がその話を伝えたんだい?」

 

 

 怪談話に茶々を入れぬが暗黙の取り決め、平然とそれを破る彼女に周りの女どもは睨むような視線を向けた。それを無表情で流す女は、果たして鈍感なのやら、豪胆なのやら。

 

 

「……京極夏彦先生が著作のひとつ、『数えずの井戸』でも読んでみるといいサ。当時は随分と話題になっていたそうだからねェ」

 

 

 主催の女が答えとして出した『数えずの井戸』は近頃話題になっていた作品である。有名な怪談「番町皿屋敷」を下敷きにし、内容を大きく変えた一冊であった。

 

 

 昨今の女どもの間で怪談が流行っているのはその本がきっかけであるとの噂もある。今宵集まった女どもも多くは、『数えずの井戸』を携えていた。

 

 

 女どもの娯楽は少ない。働きに出ている夫の帰りを待つ間、彼女たちにとっての楽しみは井戸端会議くらいのものであった。

 

 

 それが次第に怪談の話になり、やがて、折角ならば夜半にやろうではないかと取り決め、夫の目を逃れて集まり、怪談に興じる習慣ができたのである。

 

 

 中でも、番町皿屋敷は定番の怪談話であった。四谷怪談や牡丹燈籠も人気があったが、やはり皿屋敷には及ばない。

 

 

「『数えずの井戸』はアタシも読んだサ。おもしろかったよ。切なくてさァ。でも、どうせ作り話じゃあないかい」

 

 

 女は初めて怪談に参加した。そして失望したのである。誰もが聞いたことがあるような物語をなぞるばかりで、中途からすでに飽き飽きしていたのだ。

 

 

 娯楽に水を差された女どもが家に帰っていく中で、主催の女だけが残っていた。向かい合う二人。やがて、主催の女が彼女の耳に口を寄せる。

 

 

「ここだけの話、なぜ皿屋敷がこの土地で有名なのか。というのも、過去、本当にあったからサ。お菊の物語が、ね。ほうら、あの、角を曲がった右のところ、あそこが噂の皿屋敷だよ」

 

 

 驚いて振り向くと、女はすでにいなかった。おのれよもや試されているな、と憤りに拳を握った女は、思い通りになぞなるものかと心に決めた。

 

 

 翌日の夜、女がひとり消えたという。彼女は件の皿屋敷跡地へと向かった姿が確認された。つんざくような悲鳴。そして静寂。まるで最初から存在していなかったかのよう。

 

 

「暴くべきでない謎もある。追いかけていった女は、自らもまた、怪談のひとつとなったのでございます……」

 

 

 今宵も怪談に興じる悲鳴が響く。その中に、例の女の姿はどこにもなかった。

 

 

数えても、数えても

 

 番町青山家屋敷跡通称皿屋敷に怪事が起きるという評判が巷を賑わし始めたのは、青山家当主青山播磨が惨死し、青山家が廃絶になった直後、秋風が肌に染み入るようになった頃のことであった。

 

 

 夜な夜な。井戸より亡魂出でて。数を数える――。それは、そうした噂であった。

 

 

 その幽霊はうら若き見目麗しき腰元であるとされた。その女は、漆黒の井戸の孔より浮かび出で、哀切なる声音で、一枚。二枚。三枚。四枚。五枚。六枚。七枚。八枚。九枚。と、手にした皿を数えるという。

 

 

 数は九で止まる。勘定しているのはどうやら十枚揃いの皿であるらしいから、決して数え切ることはない。

 

 

 数えられぬ欠落が悔恨の蒼き焔となり燃え上がって女中の身を焼く。焼き尽くす。あな悔しあな哀し、怨めし恨めし一枚足りぬ、欠けておると、女は嘆き身悶え、陰火に焦がされて消ゆるのである。

 

 

 誰が見た、誰が聞いたということはない。多分誰も見ておらず、誰も聞いていない。それなのにそこだけは決まったように同じであった。

 

 

 どうであれ。巷間で語られる番町の怪談は、いずれもどこかに齟齬があるのだ。そしてその齟齬は、永遠に埋まらぬのである。

 

 

 何故ならば。その怪談に関わる者は。どうやら一人残らず絶えてしまったからである。

 

 

 慥かに惨事はあったのだ。その惨事こそがこの怪しき巷説を生む契機となったのことは、言うまでもない。

 

 

 菊なる女中は事実青山家に奉公しており、夜半に何かが起きて、菊が亡くなった。すぐに小姓が報せに走り、菊の母と米搗き男が屋敷を訪れた。そこまでは確かなようだった。

 

 

 その後。一体何があったのか。誰にも判らなかった。隣家の者でさえ青山家の変事には気付かなかったようである。

 

 

 何かの理由で先ず菊が亡くなり、その結果青山家に何かが起きて、家人の殆どが亡くなったということだけは確実だった。播磨は生き残り、何も処置をせずに家を出て、そして間もなく亡くなったのである。

 

 

 菊の亡魂は夜な夜な湧き出でて、一枚二枚と皿を数える。三枚四枚五枚。六枚七枚八枚九枚。

 

 

 皿は必ず欠けている。足りぬから。欠けているから。永遠に満たされぬから。だから数え続ける。数えても数えても数え切らぬ。無間地獄。

 

 

 その番町の怪談は、もう何もかも嘘なのだと言う者も多かった。それもその筈、まるで同じ怪談は、古今に東西に、山と残っているのであった。こうして。菊と播磨はおはなしになった。

 

 

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