目が見えない。耳も聞こえない。言葉も話せない。そんな障害を持ったなら、果たしてどうやって生きていけばいいのだろうか。
ヘレン・ケラー。偉大な功績を残した人物のひとりとして数えられる、有名な女性だ。
彼女について有名な話のひとつに、彼女は幼い頃、目も見えず、耳も聞こえない境遇だった、というのがある。
初めてそのことを知った時、私には想像ができなかった。教科書には、彼女のことは名前が載っているだけで、詳しくは記されていない。
目が見えないならば、言葉で伝えてあげればいい。耳が聞こえないならば、手話で会話することができる。けれど、それならば、どちらも使えないのだとしたら。
その疑問の答えはとうとうわからないまま、いつしかその記憶も薄く、消えていってしまった。
それがまるで水面に顔を出すかのように思い出されたのは、一冊の本を読んでからのことだった。
原田マハ先生の、『奇跡の人』。ヘレン・ケラーをモデルに、舞台を日本に移し、全盲の三味線弾きやイタコといった盲目の女性を絡めてストーリーを再構築した一作。
とはいえ、主に綴られているのは、ヘレン・ケラーその人がモデルになっている介良れんではなく、その教師である去場安の奮闘である。
日本の凝り固まった、ままならない男尊女卑思想。家を中心とするがゆえに欠如した家族としての愛情。
それらにも屈せず、ただれんのことを考え、諦めずに彼女の力になろうと奮闘する安先生の姿は、涙なしには読むことができなかった。
そして、この作品を読んだ時に、ふっと思い出したのは、ヘレン・ケラーのことである。
日本では、ヘレン・ケラーは「奇跡の人」という異名を持っている。けれど、どうして彼女がそう呼ばれているのか、私にはよくわからなかった。
けれど、どうやら真実は違うらしい。海外において、「奇跡の人」、すなわち「奇跡を起こした人」として知られているのは、彼女の教師であるアン・サリヴァンらしいのだ。
日本では、ほとんど知られていないその名前。けれど、物語を読めば読むほど、私はどうにも、奇跡という言葉が受け付けられなくなっていった。
彼女が起こしたのは奇跡ではない。耳も聞こえず、目も見えない、獣同然の扱いをされていた一人の女の子を、ただ愛し、根気強く教え続けた、彼女の努力の結晶なのだ。
それを、「奇跡」なんていう安易な言葉で片づけたくない。そう思うようになっていた。
目が見えて、耳も聞こえる。言葉も話せる。けれど、だからこそ私たちは、本当に大切なものを、忘れてしまっていたのかもしれない。
本当に大切なことは、目に見えない。耳にも聞こえない。けれど、たしかにある。そのことを私は、安先生に教えられたのだ。
盲目の少女
その町の一切の色を奪って、雪が降っていた。革靴の底が踏んだのは、コンクリートではなく、深い雪だった。柴田雅晴は、何度も転びそうになって足を踏ん張るはめになった。
慣れた足取りで一足先に金木駅舎に入った小野村寿夫は、得意そうに足踏みをし、ゴム長靴のかかとをきゅっきゅといわせた。
やはり、町長に自分たちの訪問について一報を入れて、せめて車を回してもらうべきだったな、と後悔した。それだけは絶対にしてはいけない、と小野村に止められたのだ。
今回の私たちの訪問に関して、町長に一報でも入れてごらんなさい。文部省のお役人が来るとなれば、町の有力者が皆、雁首揃えて駅まで出迎えに来ますよ。
この辺鄙な町から、国の重要文化財が……しかも、「生きた人間の文化財」の日本第一号が出た、なんてことになったら、大騒ぎですよ。
駅舎を一歩出ると、すさまじい地吹雪に容赦なく叩きつけられた。大変なところに来てしまったな、こりゃあ。歩き出してものの五分も経たぬうちに、柴田は悲鳴を上げたくなった。
上野発の夜行列車に乗り、ようやく津軽鉄道の小さな駅、金木に辿り着いた。家を出てから、ほぼ二十四時間が経過していた。まるで、外国へやってきたような気分だった。
去年、戦後十年の節目を視野に入れ、文部省は「重要無形文化財」なるものを指定するという方針を内々に打ち出した。
日本屈指の民俗学者である小野村寿夫は、早くからこの「重要無形文化財」を制定することを提唱し、文部省に働きかけてきた。
決して短くない道程を経てきたからこそ、こうして、自分は今、吹き荒ぶ雪の中を歩いているのだ。
これから、自分が会うはずのその人は、いったい、どんな人なのだろうか。どんな音を、聴かせてくれる人なのだろうか。
どんなって、それは、とても言葉では表せませんよ、と、小野村は、その人の音色を思い出すように、しみじみと言った。
この先、あの音を失うとしたら、それは、僕らの国のもっとも佳き芸術のひとつを失うことになる。
あの人が生み出す音を、つまりあの人をこそ、僕は、この国初の「生きた人間の文化財」にしてやりたい。
ええ、そうですとも。まちがいなく、あの人の存在は、国の宝です。そうだな、いってみれば、人間国宝、とでも呼びたいような。
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