奪われた比叡山の宝を巡る忍者たちの戦い『阿修羅草紙』武内涼


「のう、知っておるか? 比叡山延暦寺は、八瀬童子と呼ばれている者たちを抱えておるという噂じゃ」

 

「ああ、聞いたことがあるのう。なんでも、天台宗の祖である最澄に仕えた鬼の末裔であるとか」

 

老舗の団子屋の片隅で、二人の老人がひそひそと声を潜めて会話をしている。給仕の娘が団子を置きながら彼らを怪訝な目で見つめたが、彼らは話に夢中で気づかぬ様子である。

 

「成人した者であっても結髪せず、童のように履物や草履を履いているのだも聞く。ゆえに、八瀬童子じゃと」

 

「その八瀬童子よ、彼奴ら、ただの村落ではないのだという」

 

「ほう、というと」

 

「聞いて驚くな」

 

老人が声をさらに潜める。彼らは突き合わせていた顔をさらに寄せ、互いの顔が触れ合わんばかりに近づいた。噂話を外に漏らさぬためである。

 

「なんでも、彼奴らは忍びであったという噂じゃ」

 

「なんと」

 

彼らは顔を離す。そして、しばらく神妙な表情で睨み合っていた後、噂を話した一方の老人が我慢しきれぬとばかりに噴き出した。それを皮切りに、もうひとりも噴き出す。

 

「まあ、そんなわけはあるまいよ。物語じゃあるまいに」

 

「まったくじゃ」

 

二人はケタケタと笑い転げる。給仕の女が迷惑そうに見ているのにすらも気付かない。

 

「そうそう、それで、彼らは比叡山の宝物を護っているのだという噂がある」

 

「ほう」

 

「そのうちのひとつに、『阿修羅草紙』というものがあるのよ。なんでも、読めば気が狂い、戦乱を求めるようになるのだとか。それゆえに、延暦寺に封じられているんじゃと」

 

「読めば気が狂う。ただの書にそんな奇怪な力があるわけでもあるまい」

 

「暴君と呼ばれた時の王の発狂の原因が、この書にある」

 

「ふむ、じゃが、それがどうしたというのかね?」

 

「聞いて驚くな」

 

二人の老人は再び顔を寄せ合う。

 

「その『阿修羅草紙』が、何者かに奪われたのだという噂じゃ」

 

「なんと」

 

「そして、八瀬の連中は今もその宝物を探しておるのじゃと。いや、八瀬だけではない。伊賀者や、鉢屋衆まで動き出しておるともっぱらの噂よ」

 

「宝物を巡って忍びたちが術を競っている、というわけか」

 

顔を離した二人の老人は、しばし神妙な表情をして黙り込んでいた。しかし、一方の老人が我慢しきれぬと噴き出すと、もうひとりも噴き出した。

 

「まあ、そんなことはありえないとも。物語じゃあるまいに」

 

「違いない」

 

「実はのう、これはさる物語にて語られていたものじゃ」

 

「ほう」

 

「『阿修羅草紙』という書じゃ。武内涼なる者が記したという。すがるという八瀬のくノ一を描いた物語よ。年甲斐もなく胸が躍るような物語であった」

 

「その書、儂も読んでみたいのう。今は持っているのかね」

 

「うむ。ほれ、懐に」

 

「その書とやら、わたくしにも読ませていただけませんでしょうか」

 

二人の老人の会話に割り込んできたのは、先刻から給仕をしていた若い娘である。しかし、その涼やかな瞳には、どこか奇怪な威圧があった。二人の老人は背筋が凍るような気を感じる。

 

「わたくしにも、読ませていただけませんでしょうか」

 

娘はもう一度、その言葉を繰り返した。

 

 

全てを奪われたくノ一の復讐

 

都の鬼門、比叡の西の麓にその山里はある。

 

――八瀬。鬼の末裔ともいわれる人々が暮らす貧しい村だ。八瀬の里は、比叡山や洛北の山々にはさまれた狭隘の谷にある。

 

この地の人々は古来、比叡山延暦寺につかえ、山上に荷を運んだり、高僧が乗る輿をかついだりしてきた。

 

八瀬童子に対し、当地の女を、「小原女」という。小原女は、男たちが刈り出した柴、八瀬で焼かれた炭、栗などの山の幸を頭にかつぎ、都で売り歩く。

 

八瀬は、壮健な男女が多い。八瀬の中でもとりわけ素早く、逞しく、頑健な子を選び修練をほどこしたのが、叡山を守る忍び・八瀬衆であった。

 

すがるら四人は七郎冠者、鉄心坊に向き合う。すがるは、紺色の手拭いを頭に乗せ、両端を頭頂でひとつに留めていた。小原女が、威儀を正した姿である。

 

「護法ノ鬼どもよ、江州での務め、ご苦労であった」

 

四人はさっと首を下げ、一層かしこまる。屈強なる総帥の傍らに坐した鉄心坊はひょろりとした翁だ。般若丸と共に、すがるを鍛えた師でもある。

 

「お山の上の守部を……入れ替えねばならぬ。鉄心坊、厳丸を下ろす。般若丸、白夜叉をお山へ上げる。般若丸が登る以上、あらたな中ノ頭を立てねばな。それは……」

 

七郎冠者が四人を見回す。七郎冠者の双眼が、すがるで止まり、

 

「――すがる」

 

「お待ちください」

 

すがるが何か言うより先に声をはさむ般若丸だった。すがるの眉は動かぬが、胸が常よりも多くの山気を吸った。

 

「子の者、未熟ゆえ……中ノ頭はつとまりますまい。いまだ器に非ず。どうか――お考え直しください」

 

般若丸がさっと頭を下げる。すがるの前腕の筋肉が、泥の中で蛇が蠢いたように、盛り上がった。表情は一切動かなかった。

 

「あたしは、つとめあげてみせますっ。中ノ頭を」

 

「決まりじゃな」

 

般若丸は小首をかしげる。その所作が、すがるに、冷たい苛立ちを掻き起す。すがるは無言でうつむく。白夜叉が、心配そうに、すがると般若丸を窺っていた。

 

五日後、般若丸と白夜叉は御宝ノ守部として山上の勅封蔵に行く。新規の忍び働きある時、すがるを中ノ頭とする。右のことが決まった。

 

 

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