アドラー心理学を初めて知った時、私はたしかに「素晴らしい」と感じた。しかし、多くの理論や倫理と同じく、頭の中で浮かべるのは易くとも、それを実践に移すのは、あまりにも難しい。
岸見先生と古賀先生の『嫌われる勇気』を読んで以来、私はアドラー心理学に傾倒するようになった。社会との向き合い方に疑問を覚えていた私にとって、その教えは天啓のように思えた。
しかし、実践してみようと試みてみると、それはあまりにも難しかった。現実は理想通りにはいかないのだということを、まざまざと見せつけられたような気がした。
果たして、アドラーの教えは正しいのか。それを実践しようとし続けることに意味はあるのか。アドラーの教えはあまりにも世間の常識と隔絶しすぎていて、傾倒している自分が社会人としての落伍者であるかのようにすら感じられた。
そんな時に見つけたのが、なんと、私がアドラー心理学を知る上で大いに影響を受けた『嫌われる勇気』の続編であった。その名も、『幸せになる勇気』。
『嫌われる勇気』は、アドラー心理学を実践している哲学者と、アドラーの教えを頑なに批判する青年の議論をまとめたものである。最後には、青年がアドラーの教えを受け入れて、二人が友人として再会を誓ったところで終わる。
対して、『幸せになる勇気』はその三年後であるらしい。青年は再び哲学者のもとを訪れた。しかし、彼らの再会はとても穏やかなものではなかった。
アドラー心理学に感銘を受けた青年は、教師になり、生徒と接することで教えを実践しようと考えた。そして、多くの人にアドラーの教えを広めていこうとしたのである。
しかし、現実と向き合って、彼は絶望した。アドラーの教えは、実践的な教育の現場では何ら役に立たなかったというのだ。
中でも、「人を叱ってはいけないし、褒めてもいけない」という教え。実践した青年のクラスは、子どもたちが好き放題に振舞うようになり、荒れた教室になってしまったらしい。
青年は、再び哲学者の提唱するアドラー心理学を破らんとすべく訪れた。こうして、再び両者の議論は始まったのである。
私は、読みながら青年の言葉に頷いてばかりいた。「アドラー心理学は実践に移すことができない」という彼の意見に、私は大いに同意だったからだ。
しかし、作中で、青年の意見はことごとく哲学者の言葉に覆されていく。時には厳しい言葉も用いられ、逆上する青年とは反対に私自身も身の縮まる思いだった。哲学者の言葉は、どこか自分の中に自覚があったからだ。
『幸せになる勇気』での大きな主題は、「尊敬」と「愛」である。特に、「愛」についての項目は、今までのアドラーにはない大胆さを感じた。
また、アドラーの、「仕事」についての考え方は、とても面白く思う。彼は「仕事」のことを、「人生におけるタスク」、つまりは、「生きるために必要なこと」と称している。
生きるために必要であって、それ以上でもそれ以下でもない。生きるためには、嫌だろうが不満だろうが、せざるを得ないこと。
やたらと上司から、仕事の意義を語られて辟易していた私にとって、その断言は、まるで肩の荷が下りたように楽にしてくれる言葉だったのだ。
この本を読み始める時、私はアドラー心理学を実践不可能だとする青年と同じ意見だった。しかし、読み終わると、『嫌われる勇気』の時と同様に、アドラー心理学に対して信頼するようになっているのだ。それが不思議だった。
本のページを開くたび、私は青年とともに哲学者のもとを訪れているような錯覚に襲われた。私も彼とともに、アドラー心理学を読みながら学んでいるのだ。
「尊敬」と「愛」
それはもっと、明るく友好的な訪問になるはずだった。「次の機会があった時には、かけがえのない友人のひとりとして訪ねます」。たしかにあの日の別れ際、青年はそんな言葉を口走った。
しかし、3年の歳月が流れたいま、彼は全く違った目的を持って、この男の書斎を訪ねている。青年は、これから自分が打ち明けようとしていることの重大さに身を震わせ、どこから話すべきか、いまだ見当がつかなかった。
哲人「さあ、話していただけませんか?」
青年「わかりました。どうしてわたしが再びこの書斎をお訊ねしたのか、ですね。当然、火急の用件あっての再訪です」
哲人「なにがあったのでしょう?」
青年「……おわかりになりませんか? それは「アドラーを捨てるか否か」ですよ」
哲人「なにか契機となる出来事があったのですね?」
青年「冷静に、順を追ってお話します。アドラーの思想に感化されたわたしは、あの日を境に大きな一歩を踏み出しました。つまり、それまで働いていた大学図書館を辞め、母校の中学校で教師の職を得たのです」
哲人「すばらしい決心ではありませんか」
青年「しかし、もはや過去の話です。わたしは、アドラーに失望し、あなたに失望したのです」
哲人「なぜでしょう?」
青年「アドラーの思想は、現実社会ではなんの役にも立たない、机上の空論でしかないのですよ! とても実用に耐えうる議論ではなく、空虚な理想論でしかない」
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