芸術家というのは、日常を暮らす人間たちとは別の世界に生きている。音楽家もまた、当然のように例外ではない。
彼は純然とした音楽家だった。いくら名の知れているわけではないとは言っても、彼の考え方は私のような凡俗とはかけ離れている。それこそ彼が音楽家であることの証左だった。
音楽家として大成していない彼は、いつだって生活に困窮していた。しかし、それでも悠然と音楽に打ち込む彼を尊敬していたし、彼の音楽を私は愛していた。
そんな彼に、ふと気になって聞いてみたことがある。音楽を始めるきっかけは何だったのですか、と。
「ぼくが音楽を始めた理由、かね。ああ、そうだな。君はなにせ友人だ。君になら、話してもいいだろう」
彼はそう言って愉快そうに笑った。そうして、彼は手元に置かれた珈琲を一口だけ飲んで、懐かしむような視線で語り始めた。
「音楽を始めるきっかけ。そう、それはただの出来事だよ。他の人にとっては大したことではないのかもしれないが、ぼくにとってはその後の人生すら変えた大きな出来事だった」
言うなれば、ぼくは誰もがかつては体験したように、初恋をしたのだよ。彼のその言葉に、私は少なからず衝撃を受けた。
彼はどこか世界から浮いているような、仙人然としたところがあった。そんな彼がごく当たり前のように恋をしたというのは、私の知る彼らしくなかった。
しかし、同時に彼らしくもあった。彼は情熱的な人物で、恋だとか、愛だとか、そういったものが好きだった。他人の恋の成就のために、曲を手がけたことすらあるくらいだ。
「結末から言うのなら、ぼくの初恋は結局、実のなることなく終わったよ。そもそも、彼女はぼくの想いにすらも気づいてはいないだろう。あれから何十年と経った今でもね」
つまり、彼は告白できなかったということだろう。そして、その失恋の経験が音楽家としての彼を生み出したということだろうか。しかし、彼は首を横に振った。
「いやいや、違うよ。むしろ、あの頃のぼくはぼくの人生の中でも全盛期と言ってもいいだろう」
片思いをしていた頃のぼくは世界一幸せな人間だった。ぼくが今もこうして生きて、そして音楽を追い続けているのは、あの頃の幸せを表現するためだ。
そうして彼は話し出す。彼という音楽家を生み出した恋の話を。ひとりの少女と、当時は音楽家ではなかったひとりの少年の出会いと別れを。
芸術家の現実
オーケストラをホールで聞いている時、まるで別世界にいるようだと人は言う。彼らにとってそこは日常から乖離した場所であり、現実から距離を置いた時間である。
しかし、その場においてぼくたち音楽家だけは日常から離れられない。その場所こそがぼくたちにとっての日常であり、現実だからだ。
現実から距離を置き、自分だけの世界に生きている。目の前の人間は、芸術家のことをそう捉えている節があった。そして、それはこの人間に限ったことではない。
ぼくからすれば、そんなわけないだろう、と。現実から離れるなんてできるものならとっくにしている。しかし、芸術にも現実はどうしようもなくついてくるものだ。
ぼくたちとて人間である。スーツを着て会社に向かうサラリーマンとそう変わらないのだ。
ぼくは今、自分が音楽を目指した理由として初恋の話をしているが、そんなのは真っ赤な嘘に過ぎない。
ただ、ぼくを情熱的で生粋の音楽家だと思い込んでいるからこそ、そのイメージに合ったぼくを創ってあげているだけだ。いわばリップサービスである。
音楽家になったのは、ただ金のためだった。会社に勤めて働くというのはぼくには難しく、だからこそ自分が唯一得意な音楽の道を歩いただけだ。
そこには理由はあれど理念はない。人間である以上、どれだけ作品の世界に逃げ込もうとした芸術家であっても現実からは逃れられない。
食べなければどんな芸術も生まれないのだ。芸術は恋や悲哀のような情動でなく、強固な意志でもなく、泥臭い現実から生まれる。
ぼくとて若い頃は音楽家らしくあろうとした。誰もがイメージするような音楽家に。それが蜃気楼であると知ったのは、音楽家になった後のことだった。
人間のしがらみが嫌いだった。だから芸術家になったのに、結局、ぼくは現実から逃れることはできなかった。
彼女のことが羨ましくて仕方がなかった。音楽を始めたきっかけというのは嘘だけれど、美しい声で歌う彼女を見て、ぼくが初めて恋をしたのは本当のことだった。
ぼくは彼女に憧れていた。彼女のように、さえずる青い小鳥のように飛びたかった。けれど、現実からすら飛び立てない、ただの音楽家でしかないのだ。
家族を愛する音楽家の初恋
ランドセルランド――今年で開設十周年を迎える、某県某所のアミューズメント型テーマパークである。
日曜日。ランドセルランドの入場ゲートの前に、ひとりの制服姿の女子中学生が立っていた。
そんな彼女に大声で呼びかけながら、近づいてくる男の影があった。妙に手足の長い、針金細工のような体格をしたスーツ姿の男である。
そしてふたりはチケット売り場へと足を向ける。少女の名前は萩原子荻。男の名前は零崎双識である。
ふたりがテーマパークの敷地内に入っていったのを追うようにして、チケットを提示してランドセルランドに入園したふたり組があった。
二十そこそこの男の服装は、折り目正しい燕尾服だった。そしてその後ろに続く男子中学生は、顔面の右側に施された刺青が、その少年を決定的に特徴づけていた。
燕尾服の男の名前を零崎曲識。男子中学生の名前を零崎人識という。
今、彼らの属する零崎一賊は狙われている。曲識は一賊の長兄である双識は、わざと隙を見せて自ら囮になろうとしているになろうとしているのだと推測していた。つまり、彼らの目的は。
「現れるであろう刺客を始末するのが僕たちの役割だ」
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