ネオンが往路を埋め尽くしていた。水色や、黄色や、けばけばしいピンクが明滅を繰り返している。
俺はそのネオンの隙間に建っている小さな店の前で足を止めた。周りと比べると華美ではないが、クラシック調の外観は人目を引いている。
俺は扉を開け、その店に足を踏み入れた。レコードから流れるジャズミュージックが、静かに流れている。
グラスを拭いていたマスターが俺に気付いて会釈をした。俺はカウンター席の、彼の正面に腰かける。
いつものですね、そう問うてきた彼に俺は頷く。マスターが用意をしている間、俺はカバンの中からいくつかの本を取り出した。
俺はいつも仕事終わりの夜九時に、この店を訪れる。カウンター席に座って、ひとり静かに過ごすのがここ最近の日課になっていた。
本を読み始めた俺の傍らに、マスターがグラスを置いてくれる。琥珀色の液体に浸かった氷が揺られて音を立てた。
ごゆっくり。そう言ったマスターに礼を言って、俺は物語の中に沈みこんでいった。
暴力と女に明け暮れたサーキットのヒーロー
彼は決して善人ではない。学生の頃から彼は、暴力に明け暮れていた。気に食わない相手は拳でねじ伏せた。
野心を抱き続けた彼は、魅力的な容姿で女を魅了し、貢がせて、レースに出るための資金を得る。
女たちは彼を危険だと思いつつも、その魅力に抗えず、彼を愛してしまうのだ。
まさに汚れた英雄と称すべき男。バイクの排気の油臭い匂いと、女の香水が物語に浸る俺の鼻孔をくすぐるのだ。
年老いた猟師と自然との戦い
老人はたったひとりで海に出る。武器は長年をともに過ごしてきた舟と、自分の長年培われた経験。
舟の下に覗く巨大な魚影。老人の垂らした罠に食らいついたその時、彼らの戦いが始まるのだ。
老人が相対するは、目の前に広がる巨大な大海原そのもの。圧倒的な自然の力が、彼に牙を向ける。
俺たちが忘れかけている自然の恐ろしさ。その物語は、その脅威を思い出させてくれるのだ。
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自分の足で真相を探す昔ながらの探偵
薄暗い店でひとり、グラスを傾ける男。気の弱そうな若い男子大学生が、彼に話しかけた。
男は探偵のようなことをしているのだという。大学生は彼に、行方不明になった自分の恋人を探してほしいと依頼した。
探偵はため息を吐いて立ち上がった。これから彼の、長い夜が始まる。武器は自分の人脈と足だけだ。
探偵小説の中では、俺はこの作品が一番好きだ。巷で人気の探偵は数多くあれど、本当の意味での「探偵」はこういう男のことを言うのだろう。
事件とともに、今日も夜は過ぎていく。俺は作品の中の男と同じように、グラスを口元で傾けた。
夜の街を巡るハードボイルド・ミステリ『探偵はバーにいる』東直己
価格:836円 |