家のために生き、夫に心を尽くして、良き妻として天寿を全うする。武家の女とは、そういうもの。母から教わったその教えは、私を縛る呪いの言葉でした。
まるで道具みたい。幼い私が思わずそう零した途端、頬に熱を感じたのを、今でもよく覚えています。母に張られたのです。それ以来、私は母の言葉に反抗することをやめました。
けれど、心の中で疑問は燻ぶるばかり。私はいったい何なのか。私たちは、「女」という生き物はいったい何なのか。その問いは、成長していくにつれて荒々しく私の胸の内で暴れておりました。
武家の女は夫ありきです。夫を支え、子を育てるのが女の役目。妻だけでは、何の価値も認めてはくれません。理屈ではなく、そういう社会なのです。
国を動かす幕府も、表社会には男ばかり。女が少しでも表に出ると、悪意と下心と侮蔑とが、私たちの白肌に無遠慮に突き刺さってくる。
普通の人は、いいところで折り合いをつけるのでしょうね。でも私は、そんなことができませんでした。笑顔で現実をいなしながら、内心ではずっと世間を侮蔑してきたのです。
男とは、それほどまでに偉いものか。いいえ、そんなことはないでしょう。女が賢いとは言いませんが、男は馬鹿です。まるで子どもがそのまま大きくなっただけであるかのよう。腕っぷしが強いだけの、自負心ばかりが肥大化した猿。
そんな馬鹿な彼らが、世の中を動かしている。私は、釈然としませんでした。どうして男なんていう生き物に、女は振り回されないといけないのか。
ある時のこと。私は棚の奥から、一冊の書物を見つけたのです。『風のかたみ』と書かれておりました。私は少しばかり文字を読むことができましたので、読んでみることにしたのです。夫に見つからないように、隠れて。
伊都子、という町医者の女を描いているようです。彼女は目付である吉左衛門の命により、白鷺屋敷と呼ばれる屋敷に住む女たちを住み込みで診ることになりました。
彼女たちは、上意討ちをされた家臣、佐野了禅の家の女。処断された武士の家族ということもあり、幕府もまた処分を迷っているようで、伊都子は彼女たちを生かすために派遣されたのです。
しかし、女だけの白鷺屋敷では、どこか不気味な雰囲気が漂っておりました。まるで魔物でもいるかのような妖しさ。立て続けに起こる不穏な事件。いったい白鷺屋敷で、何が起こっているというのでしょう。
絵巻物でもなく、手紙でもなく、殿方の読む堅苦しい書物でもない。けれど、読み始めてみると、存外に面白く、最後まで読み切ってしまいました。
これは現実にあった出来事でしょうか。いいえ、おそらくは違う。作中に出てくる出来事は、いずれも聞いたことがない。けれど、女としては、どこか勇気がもらえる話でした。
驚くべきは、書物の中に登場する女たちの、強さ。国に反旗を翻して戦死した夫。遺された彼女たちの未来は、すでにない。
にもかかわらず、彼女たちは必死に、戦うのです。男が自分の見栄のために戦うのに対して、彼女たちの戦いは、ただ生きるための、命を燃やす戦いでありました。
女は弱いもの。三歩下がって男の影に隠れ、男を密やかに支えることこそ、良き女である、などと。そんなのは男どもが作り出した、自分たちに都合がいいだけの「女」の姿でしかない。
女とは、もっと醜く、執念深く、残酷で、逞しく、自分の信念を貫き、人を愛し、見栄を張りながら、必死にもがいて生きている。
この書の中に、私は、男が自分勝手に積み上げてきた余計な虚飾を全て剥ぎ取った後の、ありのままの、本当の「女」という生き物の美しさを見たのです。
その屋敷には魔物がひそむ
九州、豊後の安見藩城下で医者をしている伊都子が、藩の目付方、椎野吉左衛門の屋敷に呼び出されたのは、夏の盛りのころだった。
伊都子が目付役になぜ呼び出されたのか、父親の昌軒にもわからなかった。伊都子はわずかに不安を抱きながら椎野屋敷を訪れた。
黒く、よく光る目を伊都子に向けた吉左衛門は、「実は、内密にそなたに頼みたいことがあって、こうして来てもらったのだ」とさりげなく言った。
「他の身とは、ある屋敷に赴いて、そこの女人を診てもらいたいのだ。断っておくが、通いで診るのではないぞ。その屋敷に住みこんでほしいのだ」
「住み込むのでございますか」
「そうだ。その屋敷には女人ばかり、七人が住んでおる。それゆえ、男の医者を遣るわけにはいかぬ」
吉左衛門は言葉を切ってから、じっと伊都子を見据えた。あたかも伊都子が秘密を守れるかどうかを見定めようとしているようだ。しばらくして、吉左衛門はゆっくりと口を開いた。
「そなた、ひと月ほど前に、御一門衆の佐野了禅様が誅殺された件を存じておるか」
佐野了禅と言えば、藩主安見壱岐守保武の一門衆の中でも最も力のある人だと聞いていた。それだけに重臣たちと対立し、藩主ともそりがあわない、などと噂されていた。そんな了禅がひと月前、突然、上意討ちにあったことは城下でも話の種になっていた。
「わたくしが診るのは佐野家にゆかりの方たちでございますか」
吉左衛門はあっさりとうなずいた。
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