キリシタンの悲劇の真実『なぜ秀吉はバテレンを追放したのか』三浦小太郎


 目を閉じると、オラショの声が聞こえるような気がした。暗闇の中で浮かび上がる自らの信じる者に向かって、祈りを捧げる人々の声が。

 

 

 図書館で見つけ、読んでみた本を見て、私は思わず、当時の光景に引き戻されたような気がした。

 

 

 『逃亡者』。中村文則先生の小説だ。歴史の裏に隠された戦争や差別、そして信仰の悲劇がありありと描かれている。

 

 

 懐かしい。私もあの頃は、キリシタンのひとりとして悲劇を救わんとしていたものだ。上手くいかなかったが。

 

 

 作中に描かれている凄惨な悲劇。なるほど、物語としては、これ以上劇的なものはないだろう。けれど、それが歴史を一視点から見たワンシーンでしかないことを、私は知っている。

 

 

 思い出すのは、以前読んだ本だ。『秀吉はなぜバテレンを追放したのか』。読んだ時は、現代人がよくここまで調べ上げたものだと感心したものだ。

 

 

 キリシタンの弾圧を悲劇というのは簡単だ。あれはたしかに当人たちにとっては悲劇以外の何ものでもなかったのだから。

 

 

 しかし、秀吉公もまた、苦しんでいた。キリシタンを痛めつける役人も、誰ひとりとして幸せではなかった。

 

 

 彼らはキリシタンたちを救いたかったのだ。棄教することが、その唯一の道だった。だからこそ、あれほど必死に棄教を訴えていたのだ。

 

 

 日本にキリスト教を伝えた宣教師。彼らにとって、自分たちの信仰こそが絶対で、信者以外はすべて異端だった。

 

 

 彼らがイエスを信じるのと同じように、日本は仏や八百万の神を信仰していた。そして、かつての私たちはキリスト教を受け入れようとしたのだ。

 

 

 それを拒否したのは、宣教師だった。キリスト教以外を見下し、救いだと信じない彼らによる他宗教への暴虐は、目に余るものがあった。

 

 

 今では異常にも思えるが、当時の私たちはそれこそが正しい道だと信じていた。愚かだとしか言いようがないが、事実なのだから言い訳のしようもない。

 

 

 しかし、彼ら宣教師たちの真の思惑を知ってしまった時、私は自分の中に屹立していた柱を失ったことを自覚したのだ。

 

 

 日本の侵略。後の欧米の植民地政策にもつながるその萌芽は、あの頃からすでにあった。

 

 

 キリスト教を受け入れた私たちは、愚かにも、その事実に気が付かなかったのだ。宣教師たちは新たな信仰を教えてくれる味方ではなく、侵略者なのだとあの瞬間、私ははっきりと見たのだ。

 

 

 秀吉公はそれを知り、たったひとりで戦っていた。ようやく訪れた平和を守るために、彼はキリシタンを弾圧した。

 

 

 ひとりのキリシタンとして、私は秀吉公に手放しで賛同こそできない。しかし、彼もまた、弾圧に迷い、苦しんだ迷える子羊のひとりだ。

 

 

 当時のキリスト教は異質だった。宗教が国家の根幹に聳え立ち、隣人への愛を誤り、救済を無理やり押しつけ、それを善行だと信じていた。

 

 

 信仰は誰に強制されるものでもない。あの時代はそのことを忘れていたがために、イエズス会も秀吉公も間違ってしまった。強引な布教とそれに対する弾圧という道以外をなくした。

 

 

 しかし、本来ならば、信仰なんて何であっても構わないのだ。キリストであれ、仏であれ、心の中にその人の信じるべき柱があることには変わりない。

 

 

 大切なのは何に縋るか、ではない。縋るものがあるか、ということだ。救いが得られるのならば、それこそが宗教の存在している理由であろう。

 

 

 日本は素晴らしい。私は心からそう思う。キリスト教も、仏教も、神道も、どんな宗教も、我が国は否定することなく、温かく受け入れてくれる。

 

 

 かつての宣教師たちの愚かな計画が実行されたならば、我が国の未来はもっと変わったものになっていただろう。あるいは、日本という国そのものがなくなっていたかもしれない。

 

 

 現代の日本があることを、私はキリシタンとして誇りに思う。かつての宣教師たちが感動した日本の美しさを、私もまた、愛しているのだから。

 

 

悲劇の裏にある真実 

 

 近年、多くの優れた歴史書に触れる中、私なりの戦国時代を、キリスト教がなぜ禁じられたかを根底に考えてみたいという思いが生まれてきた。

 

 

 青少年時代の私は、キリスト教禁教や鎖国政策を、「歴史をつまらなくしてしまったもの」と考えていた。

 

 

 それがいかに愚かで狭いものだったのか、近代や「自由」という概念を絶対視し、歴史を歪める視点だったのか、それを検討するのが本書の目的といってもよい。

 

 

 私は、キリスト教弾圧とその後の鎖国政策を、日本文化を極めて閉鎖的なものにしてしまったものとして批判的に見るようになった。その印象はごく最近まで消えなかった。

 

 

 しかし、歴史的事実を知るに至った今、キリスト教の禁教を再検証することは、現在のグローバリズムとナショナリズムの対立を考える上で大きな意味合いを持つものと思われる。

 

 

 信仰を守り抜いた人々の信念には心から敬意を表する。しかし、寺院の破壊行為、強制的な改宗などの問題からも、やはり私たちは目を背けてはなるまい。

 

 

 戦国乱世は徹底した「自己責任」「自己更生」の時代だった。ルネッサンスと宗教改革の時代も、それと似た時代であったかもしれない。

 

 

 この時代に生まれたイエズス会が、乱世の時代に日本を訪れたことは、まさに東西文明の衝突であり、そこではさまざまなドラマが生まれた。

 

 

 このような「乱世」の時代は、お互いの権利や財産、果ては命までも奪い合う修羅の時代でもあった。この時代に平和をもたらしたのが、信長、秀吉、家康という三人の統治者だった。

 

 

 豊臣秀吉は、日本を平和的な統一国家とするために総合的な政策を構築した偉大な統治者である。

 

 

 そして、その「平和」のために、なぜキリスト教布教の禁止が必要だったのか、私たちは殉教者の悲劇と共に、統治者の政治的選択の意味をもくみ取らねばならないだろう。

 

 

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